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【トーバル・マッセン(1)】 SSIの若き研究主任  〈12/14〉
 
   デンマーク国立血清研究所前の英世
                (右から5人目)
【18】
 
 明治36年10月、野口英世はデンマーク国立血清研究所(SSI)へ留学するためにニューヨークを出発した。蛇毒の研究でカーネギー財団から研究助成を受けていたので、旅費や滞在費はカーネギー財団の負担であった。

 英世が2年前に単独で渡米した時には全くの自費であったのに比べて、好待遇を得て出発できることは、英世自身としても予想外のことであったに違いない。

 英世がデンマークへ行くことについて、小林栄への手紙に次のように書いている。

 「何故にドイツを後にしてコペンハーゲンに行くかというと、同地には有名学者が居り、世界の視線は、次第にこの地に向かっていることを、早くも私の師・フレキスナー博士とアメリカ病理学の指揮者であるウェルチ博士(フレキスナー博士の師)両人が見越して、流行のドイツではなく、機先第一に私をコペンハーゲン大学に送るのであります。留学費の都合で小国に行くのではなく、世界第一の学者に就くためデンマークに行くのであります」

 当初、SSIはコペンハーゲン大学の医学微生物研究所として創設され、臨床に用いる抗血清の製造を始めたが、小規模な研究所ではデンマーク国内の需要を賄えなかったので、大学から独立して明治35年9月1日に創設された。地下1階、地上4階の白い壁と黒瓦を用いた北欧風の建物で、動物小屋、馬小屋、池が併設されていた。

 初代所長にはデンマークに科学として微生物学を初めて導入した細菌学者サラモンセンが就任、トーバル・マッセンは研究主任であった。マッセンが所長であるとの記載が多く見られるが、実質的な責任者とはなっていたが、正式に所長になったのは、7年後の明治42年になってからである。

 入院でウェルチを知る

 マッセンはSSI創設に当たって、アメリカとカナダの研究所への視察に出掛けた。この時、フィラデルフィアで軽い腸チフスに罹かかり、ジョンズ・ホプキンズ大学の付属病院に入院、ここで同大学の創立者の一人で、アメリカ医学教育界の最高の権威者であるウェルチを知ることになった。

 当時、ウェルチはロックフェラー家から新しい医学研究所の設立を依頼されていたので、2人は研究所の構想について語り合った。

 ウェルチは、ジョンズ・ホプキンズ大学での教え子であったサイモン(シモン)・フレキスナーをロックフェラー医学研究所設立準備委員会の一員に加えていた。フレキスナーは英世を研究員として迎えたいと考え、英世のデンマーク留学を計画したものである。因ちなみに、ウェルチはSSIが創設されると直ちにデンマークに渡り、SSIを訪問している。

 英世はニューヨークを出ると、フランスのパリを経由、そこで洋服やシルクハットなどを調達するとともに、記念写真を撮った。明治36年10月26日にドイツのハンブルクに到着、2、3日滞在してコペンハーゲンに向かった。コペンハーゲンに到着した英世は、すぐにSSIのあるアマー島に渡った。

 英世より6歳上の33歳

 研究主任であるマッセンを紹介された英世は、あまりにも若いので驚いた。マッセンは当時、英世より6歳上の33歳であった。マッセンも英世が日本人であることをこの時に知ったという。

 マッセンについて次のようなエピソードが残されている。

 SSIの責任者への手紙を持ってきた郵便配達夫は、マッセンが責任者だと告げても、あまりにも若いのでどうしても手紙を渡そうとしなかったという。
 


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