野口英世TOP
 【志賀 潔  水際のペスト阻止支援  〈1/29〉
 

志賀潔(右)と英世
【26】
 
 赤痢菌発見で知られる志賀潔は、北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所で、野口英世と一緒だった。潔は英世より6歳上で、研究所では2年先輩であった。潔は自らの回想録で次のように述べている。

米国行ききっかけつくる

 「野口君の因縁には私も多少関係がある。というのは、フレキスナーが日本に来たのは私に会うのが目的の一つであった。そのころ、マニラに赤痢の大流行があり、フレキスナーはアメリカ陸軍からその調査のために派遣されたのであるが、その前に当時一段落ついた私の赤痢研究の結果を見ておく必要があったのである。私の赤痢菌発見がなかったらフレキスナーは日本に立ち寄らず、フレキスナー・野口の会遇も起こらず、野口君の研究コースも異なった道をたどっていったろうと思う」

 伝染病研究所での英世について潔は次のようなことを述べている。

 「後年よく人と談じた彼もこのごろは無口の方だったが、私と同じ東北出身の心安さから、時々私の下宿に訪ねてきた」
 潔は明治3年、宮城県士族佐藤信の第五子(三男)として生まれ、幼名直吉といった。父は藩政時代、仙台藩の大番士で若年寄御物書役を務めていた。潔は代々仙台藩の藩医を務める母の生家志賀家の養子となった。明治20年、17歳の時に東京に出て、帝国大学医科大学(現東京大学医学部)に入り、同二十九年に卒業すると、直ちに伝染病研究所に入所したのである。

 さらに潔は英世のことを次のように述べている。

 「腸内細菌の研究家として知られたイタリアのツェリー教授から、北里先生宛あてに1通の手紙が来た。イタリア語で書かれていたが、当時の伝研には誰も読める者がいない。私はそれを野口君のところに持っていくと、しばらく貸してくれと言って、10日ほど後にこんな意味だろうと訳文を見せた。その時、野口君が言うには、実はイタリア語は初めてだったが、フランス語とよく似ていると聞いていたから、あれから文法の本を買ってきて無理矢や理りに訳したんだとのことであった。私が思うのには語学の天才というより、なんでも負けず嫌いで、他人のできないことをガンバってやってのけようという精励努力の結果である」

 当時の英世を知るエピソードである。

 英世は新しく設立された横浜海港検疫所に医官補として転任したばかりの時に、潔とかかわりを持つことになる。英世は香港から入港した船舶の検査に入ったところ、船員にペスト患者らしい者を見つけた。このまま上陸させれば大変なことになるが、ペスト患者と決定することにためらった所長を説得して、船舶を長浜に廻かい漕そうさせた。事の重大性から、検疫所では伝染病研究所に検査の依頼をし、その時に派遣されたのが潔であった。潔はペストと断定、英世の決断を援護した。

帰国時の激励に一同感激

 英世が大正4年に帰国した時、伝染病研究所は内務省から文部省に移管するに当たり、北里柴三郎所長はじめ潔などが辞任した。みすぼらしい民家の一角で研究していた潔たちを訪ね「自分も北里博士の身内だ。諸君、僕はいつまでも諸君の仲間だよ」と英世が激励、一同は感激したという。

 潔は大正13年、欧米の大学視察のためニューヨークを訪れ、英世と旧交を温めた。潔に贈った金張りのシャープペンシルが、今に残されている。昭和3年、英世が亡くなった当時、潔は京城帝国大学医学部長を務めていて、京城(現韓国の首都ソウル)の来青閣で開かれた英世の追悼会に出席、功績について講演をして英世をたたえた。
 潔はその後、京城帝国大学総長などを歴任、文化勲章を受章。昭和32年、88歳の生涯を閉じた。
 


〒960-8648 福島県福島市柳町4の29
ネットワーク上の著作権(日本新聞協会)
国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c) THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN