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 【星  一   伊藤博文との面会仲介 〈2/5〉
 

星  一

星一(左)と英世
【28】
 
 明治34年10月、野口英世はアメリカのペンシルベニア州フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほどであったが歓談している。英世は前年の12月、ペンシルベニア大学のフレキスナー教授を訪ね、ようやく教授の私設助手として研究をスタートしたばかりのころであった。博文は英世が大学で世話になっていることの御礼を認したためた、大学総長宛あての名刺を英世に渡してくれ、英世は大変感激したようだ。

 この博文との出会いを世話したのが、星薬科大学の創立者星一である。星と英世が知り合ったのは、明治34年9月ごろ、フィラデルフィアのモーリス夫人宅だった。夫人は月1回、日本人を自宅に招待して晩ばん餐さん会を開くことを楽しみにしていた大変な親日家で、英世もここを頻繁に訪れていた。因ちなみに、新渡戸稲造は妻のメリーとここで知り合って結婚した。

いわき生まれで意気投合

 星は明治6年12月25日、磐前県菊多郡江栗村(現いわき市)生まれなので、同郷の好よしみですぐに意気投合したのだろう。星は同27年10月に渡米、サンフランシスコでスクールボーイとして3年間住み込みで働きながら学費を蓄えた後、ニューヨークに移り、コロンビア大学の政治経済学科に入学した。学業の傍ら、日本語新聞『日米週報』を発行していた。博文は渡米するに当たり、旧知の杉山茂丸から星を紹介され、アメリカ滞在中の博文は、星を秘書として使っていた。

 当時、日本とロシアとの関係が悪化、戦争嫌いの博文はロシアと直接交渉して、無事に収めようと考えていた。たまたまアメリカのエール大学から名誉法学博士号を贈るという話があったので、アメリカ訪問の後、ロシアまで足を延ばそうと考えての外遊だった。

 星薬科大学教授三沢美和氏は『野口英世博士と星一先生』の著述の中で、次のように述べている。

 「星のつくった伊藤の滞在中のスケジュールの中に、ペンシルベニア大学の訪問が含まれていた。これはまだ渡米して間もない無名の野口のため、首相級の人物が訪れるということで、野口の重みを大学関係者に与えようとわざわざ星が付け加えたものであった」

帰国の費用すべて負担

 星と英世との交友はこのようにして始まったが、星は明治39年、12年間に及ぶアメリカ生活に区切りをつけ、日本に帰国した。星は日本で製薬会社を興し成功を収めると、英世を会社の顧問にした。大正4年、星のもとに1通の電報が届いた。

 「ハハニアイタシ カネオクレ」

 星は直ちに5000円の金を英世に送った。英世はこの金で15年ぶりの帰国を実現した。英世の滞在費や、母シカらとの旅行費用なども星が負担した。大正6年に英世が腸チフスに罹かかった時にも、入院費用を星が払った。英世は余ったお金で、シャンデーケンの別荘や車などを購入した。

 英世と星が最後に会ったのは、大正11年、星が大戦で疲弊したドイツ化学界のため、200万マルク(現在の約20億円に相当)を寄贈、ドイツ大統領から招待を受け、その途中ニューヨークに立ち寄った時であった。その時、2人して発明王のエジソンを訪問したことはよく知られている。

 英世が亡くなると製薬会社で追悼会を開き、アメリカ人エクスタインに英世の伝記を書くための取材費用を出し、シカの伝記も出版した。

 製薬会社の人材教育部門から始まり発展させた星薬科大学は、星の生前に創立され現在に至っている。

 SF作家星新一は、星の長男である。星は衆参両院議員などを歴任、昭和26年、ロサンゼルスで亡くなる。78歳であった。
 


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