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 【畑嘉聞】  伊勢で歓迎会開き接遇  〈2/8〉
 

星  一

ロックフェラー医学研究所での畑嘉聞
【29】
 
 畑嘉聞は波瀾はらん万丈の青春時代を送っている。明治10年、三重県渡会郡南勢村相賀浦(現三重県渡会郡南伊勢町)に生まれ、17歳まで漁師として育った。当時、雑誌などに掲載された郡司成忠大尉の千島探検や福島安正中佐のシベリア単騎横断などの記事を見て憧あこがれ、無断で家を飛び出し、択捉島にたどり着いた。

 ところが日清戦争が起きて、頼りにしていた郡司大尉は島を離れていた。それに加え嘉聞は、赤痢に罹かかり生死の境をさまよった。治ったと思ったら、それ以上の苦しみの労働が待ち構えていた。それでも旅費を調達して東京まで赴き、適齢を迎えたので歩兵隊に入営、看護手に採用された。この仕事が医師を目指すきっかけとなった。

 嘉聞は入営中に医術開業前期試験に合格。除隊後、済生学舎に入り、明治35年10月、後期試験に合格し、翌年、宇治山田市(現伊勢市)で開業した。嘉聞、25歳であった。

 野口英世と嘉聞との出会いは、大正4年10月、関西に行く途中、伊勢参りに訪れた英世と血脇守之助、小林栄夫妻、母シカの一行の歓迎会の時であった。これより先、明治41年、ドイツの医学者ロベルト・コッホ来日時、東京での歓迎会や伊勢参宮の世話役をしたことで、嘉聞は北里柴三郎と面識を持ち、その後、柴三郎との交流は続いていた。柴三郎から嘉聞に手紙が届いた。

 「今度、野口博士が伊勢参宮をするので、貴下は済生学舎出身で野口博士とは同窓であるから、同窓の人たちだけでも集まって御地で相当の接遇をお願いしたい」

 嘉聞は早速、済生学舎の同窓生や歯科医・岡安乙彦らと相談し、同業者などとともに五二会館で歓迎会を開いた。

 嘉聞と英世との面会時間は短かったが、済生学舎のことやアメリカ医学事情などについて会話が弾み、嘉聞は英世から「ぜひ1度アメリカに来てください」と言われ、嘉聞は「その時はよろしくお願いします」ということで別れた。

「ウラルゴールド」創製

 嘉聞は英世のこの言葉を、忘れることはなかった。その後、専門であった淋病りんびょう療法の研究を続けていた嘉聞は、治療薬「ウラルゴールド」の創製に成功、販売権を東京の会社に売った資金で、大正7年11月、英世のもとに行った。

 英世は、そのころは黄熱病研究のため南アメリカのエクアドルに出張中であった。嘉聞は医学研究を目的にしていたので、英世の帰米を待てず、コロンビア大学への入学手続きを済ませた。

 間もなくニューヨークに戻った英世は、嘉聞の来米を心から喜んだが、コロンビア大学入学については反対であった。嘉聞に「君は医師として立派に仕事をしているので、むしろポスト・グラジエートで専門知識を深めた方が良い。コロンビア大学長は懇意にしているので事情を話しておくよ」と変更してくれた。

 嘉聞は英世のアパートにも時々出掛け、メリー夫人にも親切にしてもらった。翌年、嘉聞は世界的に流行したインフルエンザに罹り、心配した英世は、日本人医師を嘉聞のもとに派遣、また嘉聞をサナトリウムに入院させた。英世は日本人には冷たいと聞いていた嘉聞は、英世の親切さに驚きを隠せなかった。後で聞いたところ、不しつけな日本人の訪問で、研究を乱されていた英世が取った行動が伝わったためと分かり、英世への見方を変えたと自らの著書『野口博士の面影』に書いている。

黄門姿トレードマーク

 大正9年に帰国した嘉聞は、宇治山田市や三重県の医師会長などを歴任。一方では伊勢音頭を復活させた人として名を馳せ、水戸黄門の扮ふんそうをしていた姿は、嘉聞のトレードマークであったようだ。昭和19年2月、68歳で亡くなった。
 


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