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【野口 清三】 「高等科」進学で評判に 〈3/15〉
 

昭和15年ごろに北海道で撮った写真。(左から)清三、長女綾子、長男一夫の長男英男、妻サイ

昭和15年ごろに北海道で撮った写真。(左から)清三、長女綾子、長男一夫の長男英男、妻サイ
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 野口英世(清作)には11歳年下の弟がいる。明治20年4月1日に生まれ、清三と名付けられた。英世に次いで生まれた男の子にけがをさせられないと考えていた母シカは、自分や姉イヌが働いている時は清三の子守を英世にさせた。英世は清三を背負って学校に行く時もあったようだ。英世はいつも身近にいる弟を、大変にかわいがっていた。

 明治21年7月15日、その日はちょうど日曜日で学校が休みだったため英世は清三を連れて猪苗代湖に釣りに行った。すると、目の前の磐梯山が突然に大爆発を起こした。空はみるみる黒い雲に覆われ夜のように暗くなった。どうしようかと思案した英世は、清三もいるのでしばらく湖畔で噴火が収まるのを待っていた。家族の人たちは2人が戻ってこないので心配していたが、そのうち帰ってきたので安堵(あんど)したという。

 父佐代助は実家の小平潟に、わが子を連れて学問の神様である天満宮にお参りしていた。清三が6歳になると、小学校に通うことになる。英世が出た三ツ和小学校は翁島小学校と改称され、明治32年になると高等科が設置された。清三は新しく設置された高等科へ進学することになった。このころになると、村内の子どもたちの小学校への就学率は高くなっていたが、高等科へ進学する子どもは限られていた。にもかかわらず、英世に続き弟も通うことになり、評判となった。

新城酒店に見習奉公

 高等小学校を卒業した清三は、若松の新城酒店に見習奉公に入った。新城家3代目当主猪之吉に、小林栄の姉ヒデが嫁いでいたので、シカは行商や荷運びで若松に行った時などに立ち寄っていたところであり、親戚(しんせき)のような付き合いがあった。英世も若松に3年半いた時には時折、新城家を訪れており、大正4年に帰国した時は、英世はシカとともに新城家を訪れている。新城家で仕事をしていた清三は、新城家がつくった楽団の一員であった。一緒に加わっていた子どもたちには信頼されていたと伝えられている。

 20歳になった清三は、兵役のため若松第65連隊に入隊、入営中は優秀であったので、明治42年12月に上等兵になって除隊した。再び新城家に戻るが、翌年には福島の洋服店に弟子入りしている。清三はそのころ、若松で穀物雑貨店を開いたと栄から英世への手紙に認(したた)められていて、その後、若松の洋服店に再び弟子入りした。

北海道に移住し結婚

 明治44年9月になると、清三は北海道に移住した。そして同じ会津出身の遠藤房吉の養子になり、娘サイと結婚。一夫、清、綾子、正の3男1女を授かった。当時、政府は北海道開拓のため、家族が5人いると五町歩の農地を提供するということだったので、佐代助は清三に土地を持たせようと、清三の結婚後、間もなく北海道に行ったという。

 イヌの家族たちにも北海道へ移住する話が持ち上がった。シカは家族全員が北海道に渡ってしまうことに心細さを感じて、英世へ自筆の手紙を認め相談、結果的にイヌ夫妻は三城潟に残ることになった。

 大正4年、英世が15年ぶりに帰国することになり、北海道にいた清三や佐代助も三城潟に帰ることにした。しかし清三は鉄道の仕事中、けがをして故郷に行くことができず、佐代助だけ戻り、清三は英世と再会できなかった。佐代助は再び清三のもとに帰った。

 清三の筆跡が残されているが、英世に勝るとも劣らないほど達筆である。清三は代筆なども頼まれることもあったという。清三は長男一夫が住んでいた大阪に行ってから3カ月後の昭和18年11月、56歳で亡くなった。
 


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