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【野口 メリー】 家庭支えた良識ある妻 〈3/19〉
 

釣りをする英世(中央)を見守るメリー(左端)。円内は結婚時のメリー
【38】
 
 野口英世は、ニューヨークで知り合ったメリー・ロレッタ・ダージスと、明治44年4月10日結婚した。

 プレセット著『野口英世』に、英世が結婚した時の様子が次のように述べられている。

 「ニューヨークの演劇・音楽関係者が多く集まるルーチョウ・レストランでの演奏者であったグランバーグが、恋人のマートルから招かれてアパートに行くと、マートルの友人であるメリーと日本人である英世がいた。それから4人はいつも行動を一緒にしていた。ある時、4人が夕食をしていて、随分夜遅くになったが、誰か1人が一緒に結婚しようと提案。さっそく式を挙げてくれる資格のある牧師を探しに出掛けた。ついに見つからなかったので、ニュージャージー州ホーボーケンのとあるバーにしけ込んで飲んでいると、バーテンダーの知り合いの牧師を紹介してもらい無事結婚できた」

 いかにも英世らしい行動であった。飯沼信子著『野口英世の妻』に、2人の結婚証明書が載っている。それによると、英世が34歳、メリーが35歳、メリーの出身地がペンシルベニア州スクラントン、父がアンドルー、母がフランセス、立会人がA・ジェイヤー、証人がジャック・グランバーグ、マーテル(マートル)・グランバーグとなっている。

出会いは米国レストラン

 父はスクラントンの炭鉱で働いていた。メリーには3人の弟がいて、父と同じく炭鉱で働いていた。メリーは英世と結婚する10年も前にニューヨークに出て、演劇関係にかかわっていたというが、はっきりしたことは分からない。英世とメリーが知り合ったのは、前述したルーチョウ・レストランで、英世がデンマーク留学前といわれている。帰米した英世はメリーと再会、交際を深めていったようだ。

 英世はメリーと結婚したことを、ロックフェラー医学研究所長フレキスナーには内証にしていた。フレキスナーは、素性の知れたそれなりの妻をと考えていたので、英世は、しばらくは様子を見ていたのである。時がたつと、ロックフェラー医学研究所員で結婚祝いのパーティーを開いてもらうことになり、その心配も取り越し苦労であった。

 日本の家族にも、結婚したことは知らせておらず、大正4年に帰国した時に写真を持参し初めて紹介したが、好意を持って迎えられた。

 結婚した2人はアパート生活をしたが、英世は自宅でも研究に集中することもあり、医学の知識があるメリーではなかったが、英世のなすままに許していた。

 英世のアパートを訪ねた人たちの証言では、メリーから親切にもてなされたとある。社交辞令があったにしても、自宅へ友人や知人を呼べるというのは、家族の理解なしにはできないことであった。

静養のため別荘で過ごす

 大正6年、英世がチフスに罹かかり、危篤状態から脱して完治すると、今度はメリーが盲腸炎、続いて英世も盲腸炎になり、2人とも入院した。病後の静養のため、ニューヨークから鉄道で4時間ほど離れていたシャンデーケン村に別荘を購入した。メリーは海岸を希望したが、英世が故郷の猪苗代に似た山荘を好んだので決められたという。

 週末には、2人はこの山荘で過ごすことが多くなり、英世は好きな釣りをし、メリーは山荘の畑で野菜を作り、山荘を訪れる人たちにご馳ち走そうした。

 英世が亡くなると、メリーは英世の残した年金でひっそりと暮らした。英世の故郷の人たちの依頼に応じて、メリーは野口英世記念館に英世の遺品をすべて寄贈、また英世の遺志を継いで、故郷の家族に仕送りを続けた。

 1947(昭和22)年、71歳で亡くなった。ウッドローン墓地で英世と共に眠っている。
 


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