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【多くの人たちとの交わり(2)】 多様性と偉大さ育てる 〈3/26〉
 

多くの人たちとの交わり

アクラで研究中の英世(左)。その右隣がマハフィー
【39】
 
 野口英世が勤務していたペンシルベニア大学のあるフィラデルフィア近郊プリンモーアの篤志家モーリス夫人邸には、日本人がよく集まっていた。モーリス夫人は毎月一回必ず日本人学生を自宅に招待して晩餐ばんさん会を催し、音楽や宗教上の話などを聞かせて、遠く異郷に学ぶ青年たちの寂しい心を慰めていた。英世は度々この会合に出ていた。その1人である児玉信嘉宛あての手紙が多く残されていて、その時の様子が書かれているので紹介してみる。

 「この前の土曜日にはモーリス家の日本人会に出掛けました。鈴木、大滝、小川、藤岡も来ていました。山路は病気だったようです。聖書会の時、あの有名な女性弁士が周知の通りの雄弁な説教めいた説明をしていましたが、大滝がそれをとてもおかしなしかめ面をして聞いていました。思わず笑わずにはいられませんでした。松田は以前よりずっと落ち着いた女らしい様子で、ちりめんの着物に赤紫の袴はかまを着けていました。彼女はまあ愛らしい少女といってよいでしょう。云々うんぬん」(原文は英語)

 時を同じくして英世は、マサチューセッツ州ウッズホールにある海洋生物学研究所に行って研究を始めたが、そこに林謙吉、谷津直秀、三宅驥一の日本人がいた。林は画家で、この研究所の所長でシカゴ大学のホイットマンの助手を務めていた。谷津は東京帝国大学からコロンビア大学に在学中であった。三宅はコーネル大学に留学しており、2年後にドイツに行くことになって、ウッズホールでは2カ月間研究に来ていた。三宅は英世と意気投合して、英世の部屋に同宿した。日曜日には、よく四人で弁当を持って近所の森や近くの島に遠足に行っていた。

万国医学会長とも面会

 英世のヨーロッパでの講演途中、ドイツ・ミュンヘンのホテルに英世が尊敬する万国医学会長でミュンヘン大学総長のフリードリッヒ・ミュラーが英世に会いに来たいとのことだったので、橋渡し役として東京帝国大学の真鍋嘉一郎が英世のホテルを訪ねた。真鍋からその知らせを受けるや、まだワイシャツとズボン下のままでいた英世であったが真鍋を招き入れ、小躍りして喜んだという。真鍋は英世の学者としての正直な心に打たれ、生涯にわたって英世を尊敬し続けた。

ペルー学生の研究証明

 英世が黄熱病の研究のためペルーに赴いた時のことであった。ペルーの風土病であったペルー疣いぼとオロヤ熱とが、同じ病原菌であることを、自らを実験台にして証明して亡くなったリマ大学生のダニエル・カリオンのことを知った英世は、ハーバード大学の研究調査隊すら認めなかったこの研究を、英世は見事証明してカリオンの屈辱を晴らした。ペルーでは、カリオンが亡くなった10月5日を「ペルー医学の日」とし、この病気を「カリオン病」と命名して、カリオンをペルーの英雄としてたたえている。

 アフリカの黄熱病研究班の1人であったストークスが黄熱病に感染して亡くなると、英世はアフリカへの遠征を決める。英世は決死の覚悟を決めて、自らの像をロシアからアメリカに亡命していた彫刻家コーネンコフに依頼した。生前に作られた像として、今に残されている。

 アフリカに遠征した英世は、国際保険部員のアレグザンダー・マハフィーの家に住み込みした。家族ぐるみのもてなしに、見知らぬ土地での生活を難なく過ごせたようだ。外国人に対して不信を抱いていた現地の人たちに厚い信頼があったマハフィーの存在なしには、アクラでの英世の研究は進まなかった。

 英世は一生の中で何百人の人たちと知り合ったのだろうか。英世はそれら一人一人から、多くのものを吸収した。英世の多様性と偉大さは、これらの人たちによって育はぐくまれたのである。

 おわり
 


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