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【小林 栄(3)】 影響を与えた教育思想  〈10/19〉
 
師範学校卒業のころの小林栄
【5】
 
 小林栄は自らの著書『育英回顧80年』の中で、野口英世との出会いについて次のように述べている。

 貧しそうな姿、俊敏な眼光

 「明治22年、猪苗代地方の各尋常小学校を巡回し、卒業試験を執行した。その時今の翁島小学校は三ツ和小学校といったが、そこで身には襤褸ぼろを纏まとうて居るが、俊敏なる眼光と左手の不自由な少年が目に付いたが、これが後の野口英世であった。後日、砂浜からダイヤモンドを見つけた様なものだという人もあったが、実は私にそんな先見の明があったわけではない。単に貧しそうな姿と、悧巧りこうそうな目つきと、不自由な手に同情したのであった」

 栄の遠慮がちな著述であろうが、出会いはこの通りであっても、何故に清作とのかかわりができたのかを次のように述べている。

 「この時私は不思議な都合で、此の野口清作の級を高等1年より卒業するまで4年間継続して受け持つことになった。4年間も受け持てば、親しみの度が厚くなることは言うまでもない。今や小学校教員の変更が頻繁で、卒業するまでに7、8人の先生が変わるのは普通である。生徒は先生の名を覚えていないものもある。当局者は曰いわく《清新の気分を与えるのだ》と。教員は水や空気ではない。師弟の情誼じょうぎなく、只切売的ただきりうりてきに教員がその日々の働きをしていては真の教育はできない」

 栄は高等小学校へ入学した清作を卒業するまでの4年間担任として受け持った。当時、教員で栄のように師範学校を卒業した者は少なく、しかも入学から卒業するまで4年間担任するということは稀まれなことであった。

 栄は明治11年10月に師範学校を首席で卒業し、師範学校の校長から県庁所在地である福島町での奉職を勧められた。しかし栄は「郷里での子弟教育」を使命と考え教員になったので、故郷の猪苗代小学校へ奉職した。

 栄はその考えを生涯貫き、35年間の教員生活の中で、わずかに猪苗代町の隣村の千里小学校(現在は猪苗代町)へ転勤しただけであった。

 また次のようなエピソードが残されている。

 梅漬けでお茶を飲み修養

 明治40年ごろ、耶麻郡校長会の時、各学校教員自体の修養の実況を述べよということだったので、各人は読書や撃剣げきけんなどをしているなどと答えた。しかし、栄は毎朝時間前に事務所において、梅漬けにてお茶を飲み修養していると答えた。一同は大いに笑った。しかし郡長は「その理由を説明せよ」とのことだったので、栄は「修養というものは読書などで得られるような簡単なものではなく、如何いかに誠意を以って熱心にこれに当たるか、死生の巷ちまたを出入するかによってようやく得られるものである。その意味において、教授訓練よりも、人間教育に重きを置いて談じるので、大瓶に梅漬けを入れ、学校に蓄え置いている」と言った。

 独特な教育思想を持った栄との出会いと4年間の担任の生活の中で、清作は大きく影響を受けたのであった。英世はアメリカのペンシルベニア大学で研究できるようになった明治34年3月に、栄に出した手紙で次のように書いている。

 「私はアメリカに来て夢を見ますが、未いまだに東京やアメリカの夢は見ません。いつも夢に出るのは磨上原すりあげはらでの運動会、鳥捕り、水あび、秋の日の穫とり入れ、雪の日の登校、学校の友人たちなどで、小学校時代か幼年時代のものです。私がアメリカに来て医学の研究ができるまでになれたのは、とりもなおさず先生より薫陶を受けたことによるもので、夢はその反映です」
◇ひとこと◇
   小林栄の姉の孫に当たる末廣酒造社長の新城基行さん

 小林栄の姉のひ孫に当たる末廣酒造社長の新城基行さん(56) 新城家にとって野口博士は身近な存在で、大きな目標。野口博士の実弟も末廣酒造で働くなど縁がある。野口博士が大正4年に1時帰国した際、新城家に「鴻図(こうと)」という書を残すなど、新城家にも気を使ってくださっていたと聞いている。
 


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