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【小林 栄(4)】 清作の左手に手術提案  〈10/23
 
英世を励まし続けた小林栄(右)と母シカ
【6】
 
 野口英世がアメリカに行って医学研究に打ち込める幸せを小林栄に述べた。

 「私を役場の一書記にできたのも恩師です。あるいは私を馬夫にできたのも恩師です。私を最も愛する母を養う道に就かしたのも恩師です。人は裸で生まれて裸で死ぬ天命なので、誰を憾うらむということはありませんが、そうした人生の中で、私は恩師にお会いできたのは、一生の幸せでした」

 このように感謝しているのには、英世が医師になるきっかけをつくってくれたのが栄であったためでもある。

 生徒らがお金出し合う

 高等小学校3年2学期の作文の時、清作は日ごろから考えていた左手の苦痛について綿々と綴つづった。この文を読んだ栄は同情し石川栄治校長に報告、その作文が教員全部に回されると、清作の左手の手術をしてやろうという話になった。先生や生徒たちがお金を出し合い、栄の紹介により若松の渡部鼎医師の手術を受けることになった。

 清作から進路について相談を受けていた栄は、大学に行かなくても、国家試験によって、医師になれることを助言した。清作にとっては、目から鱗うろこが落ちる思いであった。手術は成功し、指が動かせるようになると、清作は高等小学校卒業後は医師を目指して、渡部鼎のもとで住み込みで働こうと決心する。

 希望通り清作は鼎のもとで勉学に勤いそしんでいたが、それにしても清作は左手のことをいつも気にしていた。このまま努力しても医師になれるか、なれても仕事ができるか不安があったようだ。清作は手紙で栄に次のように述べている。

 「物理学を習っている若松四ノ町の日下毅氏は私を見込んでいて、《学術医士か国家医にでもなってください。試験までは1年なので挫折しないで頑張るように。東京の医学士野川二郎という人は、右手および右足ともに不随意なれども、生徒に教授するのには左手で洋字を黒板に書き、また外科では左手にて、助手を使って右手を加えて自由に技術をこなしている》と励ましてくれています。私は長くても医師試験勉強は1年で終わる決心でいますので、ご安心ください」

 清作は若松での3年5カ月に及ぶ修業を終え上京した。前期試験には難なく合格したが、さらに後期試験があり勉学と実習を重ねる必要があった。

 ところが、当初あてにしていた渡部鼎からの仕送りが渡部家の都合で途絶え、清作は就学資金を栄などに頼らざるを得なかった。清作の要求に応える栄に、清作は決意を述べている。

 「兵士も武器がなくては戦うことができません。私は1冊ずつでも医学書を購入して勉学をいたします。がまんするだけがまんをします」

 しかし、独学で後期試験に合格するには容易ではなく、医学校「済生学舎」に通うことを栄に相談した。

 「済生学舎へでも出て、又または慈恵医院にでも入学して、食客しつつ学業を成し遂げたいと思います。私が小さい事業に甘んじないことを、先生はお許しくださることと考えております」

 20歳で医師試験に合格

 清作は苦学の末、明治30年、弱冠20歳で後期試験に合格、医師開業免状を取得することになる。

 清作は医師免状を取得しても開業医にはならず、研究者としての道を歩むことを早くから決意していた。

 「試験に合格すれば、一つは開業医、一つは研究者となる道があります。私は当然に研究者の道を進むことになります。私は先生の教えに従って(救世)の本道を誤らないようにいたします。先生のご意見を仰ぎたく存じます」

 清作がこのような考えを持ったのも、母シカの影響も大きかった。
◇ひとこと◇
 祖父・才二氏が英世の同級生有志による「竹馬会」の会員だった猪苗代町の小林光子さん(67)

 祖父は私が生まれる前に亡くなったが、父・光助(元野口英世記念館長)から聞いた話や、博士に贈った竹馬会の寄せ書きなどで面影に触れてきた。記念館創立にも尽力したという祖父に尊敬の念を抱いている。
 


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