【維新再考・識者に聞く】半藤一利さん(1) 「敗者の義」なかったか

  このエントリーをはてなブックマークに追加 
はんどう・かずとし 1930(昭和5)年、東京都生まれ。旧制長岡中、東大卒。文芸春秋で「週刊文春」「文芸春秋」編集長などを経て作家に。93年「漱石先生ぞな、もし」で新田次郎文学賞、98年「ノモンハンの夏」で山本七平賞。2006年「昭和史1926―1945」「昭和史 戦後編」で毎日出版文化賞特別賞を受賞。このほか「幕末史」など著書多数。86歳。

 会津などが戦場となった戊辰戦争の勃発から来年で150年。日本は、この内戦が象徴する歴史の転換期「明治維新」によって、近代国家へと大きく踏み出した。ただ同時に国内には「官軍と賊軍」「勝者と敗者」がつくり出された。そのため近代史では、勝者の視点から明治維新の「正義」が語られ、汚名を着て故郷を追われた人々が顧みられることは少ない。だが敗者の「正義」はなかったのだろうか。新政府と対峙(たいじ)し奥羽越列藩同盟をつくった東北、福島の視点から、明治維新を再考する旅に出る。スタートの第1部では近代史を再検証する作家、半藤一利さんら識者に明治維新とは何かを聞く。

 勝者が革命正当化

 私は夏目漱石、永井荷風(ともに東京出身)が好きで、作品をよく読んでいるが、二人とも「維新」という言葉は使っていない。特に荷風は全く使っていない。

 明治の人たちも「維新」という言葉を使ってはいるが、漱石や荷風ら江戸の人は「瓦解(がかい)」という言葉を使っていた。江戸幕府が瓦解した、江戸文化が瓦解したという意味だろう。

 さらに二人が使っているのは「御一新」。作品を読んで「当時の人は御一新と呼んでいたんだ、維新なんて言葉はないんじゃないのか」と思ったのが、明治維新への疑問の最初だった。

 もう一つ、私の父方の祖母が、長岡藩のそば(新潟県長岡市周辺の地域)の生まれで、私が子どもの時、明治維新とか幕末の志士とか薩長(薩摩、長州両藩)を褒めるようなことを言うと「うそなんだぞ」と言っていた。

 つまり、薩長は勝手に明治政府をつくったのだが、自分たちが権力を奪ったことが悪いことじゃないんだと言うため、自分たちを褒めるために「維新」という言葉を使ったのであって「あんなのはうそだ」と祖母は言った。そして「わが長岡藩7万4000石にけんかを仕掛けて約5万石を盗(と)った。泥棒と同じなんだ」ということをいっぱい言った。

 私は「へー、そんなことがあるのか」と思って育ったが、学校の教育で「明治維新」という言葉を使い、そこから新しい日本が始まったものだと思ってはいた。

 攘夷、倒幕に変えた薩長

 ただ、祖母の言葉が頭に残っていて、それが荷風や漱石の本を読んでいると、よみがえってきた。

 歴史というのは、勝った方が自分のことを正当化するために歴史を改ざんする。そういう事例をずいぶん(取材などを通し)見てきた。だから、明治維新というのも薩長の改ざんかな―と(祖母の話などを)思い出したのが最初だった。

 それで調べると、確かに「明治維新」という言葉は(当時は)ない。使い出したのは明治13(1880)年か14年だった。明治14年というのは「明治14年の政変」があり、薩長政府、むしろ長州政府が、土佐の板垣退助、肥前(佐賀)の大隈重信を追い出すため政変を起こし政権を取った。あの辺から使い出したことが分かった。

 これは、なるほど薩長が、自分たちが革命を起こし、徳川幕府を倒し天下を取ったが、それが間違った革命ではない、歴史の流れの正当性があるんだ―ということを主張するため、うまい言葉を使った―というのが分かった。

 それが、私たちが習った明治維新観というものを再検証した方がいいんじゃないかと思った、そもそもの始まりなのです。

 「明治維新」という言葉は、初めは存在せず、薩長中心の明治政府が、自分たちが起こした政変、革命を正当化するため作った言葉ではないか。そこから始めて、いろいろ書いてきたが、結果的に私の(明治維新を再検証する)考え方の基本になったのは、幕末の「尊皇攘夷(じょうい)」という言葉、スローガンが、いつ「尊皇倒幕」に変わったのか―ということだった。

 尊皇攘夷という言葉は、非常に微妙なところで尊皇倒幕に変わった。それが慶応元(1865)年。この年、京都の朝廷、孝明天皇を囲む公家たち、つまり、ものすごく攘夷で固まった連中が「攘夷はできない」と判断した。

 その前々年(1863年)には長州藩が米、仏、蘭などを相手に下関戦争(~1864年)をやった。薩摩藩も鹿児島湾で薩英戦争をやり、外国の艦隊に、やられた。そういう現実を見て、それまで「攘夷」だった朝廷が「開国」という方針に決めたのが慶応元年だった。

 話を少し戻すと、それまで長い間、幕府が政治の方針を決める時、朝廷の許可はいらなかった。ところが孝明天皇の祖父、2代前の光格天皇が、天皇位というものをもう少し明確にする必要があると考え「幕府の政策を京都に報告し許可を得てくれ」と強硬に言った。許可まではいってはいないとは思うが、光格天皇の時から、幕府の政策は京都に報告するということは決まっていた。

 開国で一致後に分断

 すると幕府が「開国」という大決定、国策を決めた当時(1853~54年)、幕府は(朝廷にも報告しており)別に悪いことをしたとは思っていなかったのではないかと思う。

 それを「幕府はけしからん」と言い出したのは、目ざとい薩長(薩摩、長州両藩)、それに土佐、肥前両藩だった。そこで「幕府は、天皇家をないがしろにして(開国を決定し)けしからん」という尊皇攘夷運動が起きる。時代の流れというのもあるのだろうが、ここから尊皇攘夷のスローガンが掲げられていった。

 しかし、その約10年後には、薩長と外国艦隊との戦いがあり、慶応元年には、英仏蘭3国艦隊が大阪湾のそばまで来て兵庫港を開港しろと迫った。京都はすぐ近くなので、これには朝廷も震え上がった。

 そういういきさつがあり朝廷は、開国して外国の文明を取り入れ、日本の文明化をして、それからでも攘夷はできるのだから、取りあえず開国をせざるを得ない―となった。その時、幕府の方針と、京都の方針が「開国」で一致。つまり国策は一つになったわけだ。

=この続きは、福島民友新聞社発行の「維新再考」保存版でお読みいただけます。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

 ※「識者に聞く」第1部で掲載された半藤一利さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。