【維新再考・識者に聞く】半藤一利さん(5) 正直すぎ...政治で負けた

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 戊辰戦争は、薩長などの反幕勢力が、反対勢力の軍隊をつぶすため仕掛けた戦争で、幕府や会津は薩長の策略に乗せられたのだ―と語る作家半藤一利さん。第5回は、京都守護職を担いながら、薩長の革命によって一転「朝敵」の汚名を着せられ、戦争へと進んでいった会津藩について、少々辛口な視点で語る。

 流され後戻り不能に

 《(編注)会津藩主の松平容保(かたもり)(注1)は1862=文久2=年閏(うるう)8月から、攘夷(じょうい)派浪士らが流入していた京都の治安維持などを担う京都守護職を務めた。京都・金戒光明寺の本陣には藩兵1000人が常駐。幕府側の主力軍として、対立する長州勢の排除に一時成功した。しかし67=慶応3=年、薩摩、長州両藩が仕組んだ討幕の密勅(といわれるもの)などにより、会津藩は幕府、桑名藩とともに「朝敵」とされ、戊辰戦争では若松城下などが戦場になった》

 私に言わせると、会津藩の立場は、気の毒だと思う半面、松平容保公が、誠実で正直な方だけれど、どうも資料などをよく見ると、政治家としての駆け引きをまったく知らない。悪口を言うつもりはないが、優柔不断。それに病弱だった。

 容保公は、あの大混乱の時、賊軍の頭という汚名を必ず着なければならなかったかと言うと(京都守護職を辞めて)引き返すところはいくらでもあったと思う。けれど、大日本帝国もそうだが、どんどん歴史に流されていった。

 《(編注)容保は当初、幕府からの京都守護職就任の要請を固辞したが、幕府の政事総裁職・松平春嶽(越前福井藩主)らの説得で受諾した。この時、春嶽らは、幕府への忠義を筆頭に掲げた会津藩家訓(かきん)十五箇条(注2)を持ち出し、容保も受けざるを得なかったという。会津藩の国家老西郷頼母、田中土佐たちは、荷が重いとして就任撤回を申し出たが、聞き入れられなかった》

=この続きは、福島民友新聞社発行の「維新再考」保存版でお読みいただけます。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

 ※「識者に聞く」第1部で掲載された半藤一利さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

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 はんどう・かずとし 1930(昭和5)年、東京都生まれ。旧制長岡中、東大卒。文芸春秋で「週刊文春」「文芸春秋」編集長などを経て作家に。毎日出版文化賞特別賞を受賞した「昭和史1926―1945」「昭和史 戦後編」など著作多数。幕末、明治維新については「幕末史」などがある。86歳。

注1)松平容保(まつだいらかたもり) 会津藩の第9代藩主。1836年、高須藩主松平義建(よしたつ)の六男として誕生。叔父の会津藩主容敬(かたたか)の養子になり52年藩主に。会津戦争後は蟄居(ちっきょ)後、日光東照宮宮司、土津(はにつ)神社祠官などを務めた。93年没。
注2)会津藩(あいづはん)家訓(かきん)十五箇条(じゅうごかじょう) 会津松平家の初代保科正之が定めた藩の方針。第1条で「大君の儀、一心大切に忠勤に存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず―」と徳川家への忠義を強調した。