【維新再考・識者に聞く】半藤一利さん(6) 名前消された「朝敵藩」

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 薩摩、長州など新政府側に対し、会津藩は筋を通すことを重んじた。しかし、この実直さゆえに、薩長に「政治力」で敗れたと言う作家半藤一利さん。「再考」の6回目は、戊辰戦争で敗れた側に対する「差別」について語る。

 敗者への厳しい差別

 会津藩と同じく、戊辰戦争で明治政府側と激しく戦ったのが長岡藩だ。ただ、長岡藩も、藩兵を指揮した家老の河井継之助も、会津藩とは(戦争に踏み出す状況が)かなり違う。

 会津藩には保科正之公の残した家訓がしっかりあるが、長岡藩の家訓らしい家訓は「常在戦場」。三河の時代からの家訓なのだが、抽象的。一方、河井継之助というのは、かなり激しく変わったところのある人物だった。

 会津の場合「家中一つになって徳川家のために守る」。継之助の場合は、徳川家がどうのこうのというよりも「おのが武士道とはなにか」と考えた。おのれが何かをやるために(長岡藩を戦争に)引っ張り込んだようなものだった。

 振り返ると戊辰戦争の奥羽越列藩同盟は、政治力のない人たちが集まりすぎた。そう言っては失礼だが、今も東北、北陸の人たちは、薩摩や長州とは違い政治力がない。

 薩摩藩などは江戸時代、密貿易で稼いでいた。密貿易ができるというのは、すごい外交力、政治力があるわけだ。やはり幕末というのは、(東北や北陸が)薩長にうまく乗せられたのだった。

 それで来年は「明治維新150年」というのを、わが日本国がお祝いするそうだ。しかし「何を抜かすか」―と。「東北や北陸の人たちの苦労というものを、この150年間の苦労というものをおまえたちは知っているのか」と言いたくなる。戊辰戦争の後、敗者の側は、さまざまに差別されてきた。

 分かりやすい例では、廃藩置県の時、県の名前と、(旧藩名を継承しているケースが多い)県庁所在地の名前が、同じではない県が例外的にできた。

=この続きは、福島民友新聞社発行の「維新再考」保存版でお読みいただけます。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

 ※「識者に聞く」第1部で掲載された半藤一利さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

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 はんどう・かずとし 1930(昭和5)年、東京都生まれ。旧制長岡中、東大卒。文芸春秋で「週刊文春」「文芸春秋」編集長などを経て作家に。毎日出版文化賞特別賞を受賞した「昭和史1926―1945」「昭和史 戦後編」など著作多数。幕末、明治維新については「幕末史」などがある。86歳。