【維新再考・識者に聞く】中村彰彦さん(1) 容保に絶大な信頼

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なかむら・あきひこ 1949(昭和24)年生まれ。栃木県栃木市出身。宇都宮高、東北大文学部卒。文芸春秋勤務を経て91年から文筆活動に専念。主に幕末・維新期の群像を描いた作品を執筆している。94年の第111回直木賞を受賞した「二つの山河」など会津に関する著作が多い。68歳。

 戊辰戦争150年を前に明治維新を再検証する「維新再考」。識者に聞く第1部は、今回から会津藩に題材を取った多くの著作で知られる直木賞作家中村彰彦さんが登場する。中村さんは、旧幕府勢の中核として「朝敵」「賊軍」の汚名を受けた会津藩の「正当性」を主張する。第1回は、幕末の会津藩主松平容保と孝明天皇の関係について語る。

 確かな証拠「御宸翰」

 「天道、是か非か」。戊辰戦争における勝者と敗者、特に会津藩の立場を考えるとき、私は中国・前漢時代の歴史家・司馬遷が残したこの言葉を思い浮かべる。

 「天は善人に福を与え、悪人に禍(わざわい)を下すというが、実際には善人が苦しみ悪人が楽をすることがある。果たして天が必ず正しいか分からない」との意味である。天の定めた秩序や運命が必ずしも公平とは限らないということだろう。

 司馬遷は生涯をかけて執筆した「史記」の中で、非合理な世の中に対する恨みを表した。今も「勝てば官軍」という嫌な言葉がある。行いの正しさよりも、結果しか評価しない風潮が現代社会にも満ちている。

 戊辰戦争での会津藩は、矢玉尽きるまで頑強に抵抗し続けた。1868(慶応4)年8月に始まった鶴ケ城での約1カ月の籠城戦には、少年藩士からなる白虎隊までも前線に投入し、足手まといになるまいと婦女子は次々と自刃(じじん)した。「会津に降人(こうじん)なし」とたたえられる鉄の結束で戦い、鶴ケ城開城までの戦死者数は約3000人を数える。

 会津藩が新政府軍から賊軍の首魁(しゅかい)とみなされ、最後の将軍徳川慶喜よりも憎まれたのは理由がある。それは幕末の会津藩主松平容保が京都守護職を務め、尊皇倒幕派の動きを圧迫し続けたからにほかならない。

 降伏後の会津藩は滅藩処分となり、「挙藩流罪」とでもいうべき悲惨な運命をたどる。しかし、会津藩は戊辰戦争までは「官軍」で、幕末の孝明天皇は容保に絶大な信頼を寄せていた。その証拠として、容保が生涯誰の手にも渡すことなく守り抜いた「御宸翰(ごしんかん)」が残されている。

 天皇崩御で正邪が逆転

 御宸翰(ごしんかん)については、松平容保が、京の治安を守る京都守護職に就いた1862(文久2)年から語っていこう。

 京は尊皇攘夷(じょうい)を叫ぶ浪士のテロや殺傷事件が日常茶飯事で、尊皇とは名ばかりの犯罪者も多かった。取り締まれば「嫌われ者」になり、藩兵常駐で藩財政が大赤字になる。容保は就任を再三辞退したが引き受けたのは徳川への忠誠心と尊皇の思いが強かったからだ。

 容保は62年12月24日、藩士約千人を率いて上洛し、強力な藩士や新選組と市中見回りに励んだ。凶悪な事件は途絶え、街のにぎわいが復活し、会津藩は人々から歓迎された。孝明天皇(注1)は、朝廷と幕府の公武合体(注2)を願っており、治安維持に励む誠実な容保に信頼を寄せた。

 63年に「八月十八日の政変」(注3)が起きた。孝明天皇は、政変の成功を喜び、10月19日に感謝の意を込め、容保に御宸翰や御製(ぎょせい)を下した。一方、長州藩は「禁門(きんもん)の変」(注4)などを経て朝敵となり、ここから幕府の長州征討に発展した。

=この続きは、福島民友新聞社発行の「維新再考」保存版でお読みいただけます。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

 ※「識者に聞く」第1部で掲載された中村彰彦さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

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注1)孝明(こうめい)天皇 幕末(1846~1867年)に在位。攘夷(じょうい)を熱望し公武合体の立場で討幕に反対。徳川家茂に嫁した和宮(かずのみや)は妹。
注2)公武合体(こうぶがったい) 朝廷の伝統的権威を掲げ、幕府再強化を進める政策。これにより反幕・排外的な尊皇攘夷(尊攘)運動が激化。
注3)八月十八日の政変 会津、薩摩両藩中心の公武合体派が長州藩中心の尊攘派を京都から追放した事件。尊攘派の公卿(くぎょう)7人は長州に逃亡(七卿落ち)。