【維新再考・識者に聞く】中村彰彦さん(3) 忠誠を貫き悲痛の決断

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 「逆賊を滅ぼした戊辰戦争」との歴史観を否定する作家の中村彰彦さん。第3回は、会津藩主・松平容保が新政府軍から最も憎まれた理由である「京都守護職の就任」の経緯を語る。

 滅びの道...京都守護職 

 松平容保が幕末史に登場するのは大老・井伊直弼が暗殺された1860(安政7)年の「桜田門外の変」(注1)だ。容保は水戸藩を討つ愚かさを説き「ますます天下が乱れる」と意見した。徳川14代将軍・家茂も賛同し、徳川御三家の内紛は免れた。これで容保の聡明さが知れ渡った。

 尊皇攘夷(じょうい)派は桜田門外の変以降、さらに暴れ回る。京では、幕府への反発感情が強い公家に尊皇攘夷を吹き込み、幕府要人らを「天誅(てんちゅう)」と称して襲うテロを繰り広げた。ある者は街角で殺され、ある者は首がさらされた。血なまぐさい空気が京を覆い尽くした。

 江戸でも1862(文久2)年に老中・安藤信正(磐城平藩主)が水戸浪士らに襲われる「坂下門外の変」(注2)が起きている。

 大老暗殺や老中襲撃が起きる前代未聞の事態。大藩の藩主を、老中よりも強権の特別職にしないと幕府はもたない。そこで将軍・家茂を支える「将軍後見職」、幕府の政策を統括する「政事総裁職」、京の警察機能の最高責任者となる「京都守護職」(注3)を置いた。

 62年7月、将軍後見職に一橋慶喜(後の徳川15代将軍)、政事総裁職に福井藩の前藩主・松平春嶽が就き、62年閏(うるう)8月になって京都守護職に容保が就いた。容保の就任が遅いのは、尊皇攘夷派に憎まれ、財政難に陥る役目の就任について藩内で意見が割れたからだ。

=この続きは、福島民友新聞社発行の「維新再考」保存版でお読みいただけます。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

 ※「識者に聞く」第1部で掲載された中村彰彦さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

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 なかむら・あきひこ 1949(昭和24)年生まれ。栃木県栃木市出身。宇都宮高、東北大文学部卒。文芸春秋勤務を経て91年から文筆活動に専念。主に幕末・維新期の群像を描いた作品を執筆している。94年の第111回直木賞を受賞した「二つの山河」など会津に関する著作が多い。68歳。

注1)桜田門外の変(さくらだもんがいのへん) 1860(安政7)年3月3日、江戸城桜田門外で尊皇攘夷(じょうい)派の水戸浪士ら18人が登城途中の大老・井伊直弼(彦根藩主)を暗殺した事件。安政五カ国条約締結など強権政治への批判、反対勢力を弾圧した安政の大獄の報復が起因になった。これに対し幕府は尾張、紀州両藩に水戸藩を征伐させようとした。
注2)坂下門外の変(さかしたもんがいのへん) 1862(文久2)年1月15日、江戸城坂下門外で尊攘派の水戸浪士らが老中・安藤信正を襲撃し負傷させた事件。信正が公武合体を推進し、幕府の権威回復のため和宮降嫁(こうか)を実現させたことが尊攘派の憤激を招いた。この後、信正は老中を罷免された。
注3)京都守護職(きょうとしゅごしょく) 1862年、尊攘運動の高揚と、朝廷との摩擦を憂慮した幕府が設置した。京都所司代や大坂城代、近隣の各奉行、近国の大名を指揮する権限を持つ。初代が松平容保で、64年の第1次長州征討のころ松平春嶽が任命されたが、間もなく容保が再任。67年の王政復古で廃止。会津藩は藩兵千人を常駐させ、守護職預かりとして新選組も配下に置いた。