【維新再考・識者に聞く】中村彰彦さん(5) 謎多い「白虎隊の悲劇」

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 会津藩は国防の第一線で幕府を支えてきたという作家の中村彰彦さん。第5回は、戊辰戦争の悲劇とされる白虎隊の実像に迫りながら、歴史観のねじれ現象を語る。

 愛国の鑑として利用

 少年藩士で編成された白虎隊は飯盛山(会津若松市)で自刃したことで知られる。落城を誤認し、けなげな最期を遂げたお涙頂戴のイメージで喧伝(けんでん)された。これは官製史観により国威発揚に利用されたためだ。

 まずは成立背景から。会津藩は幕末、洋式への軍制改革が遅れていた。薩摩、長州両藩は近代的軍隊なのに、会津兵は刀槍(とうそう)で斬り込みをかけるばかり。兵力差は歴然だった。実際、戊辰戦争の端緒となった1868(慶応4)年1月の鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍の中で最多の140人が戦死した。

 会津藩は同年3月、新政府軍の進攻を予期し、幕府と同じフランス式の軍制改革を行い、年齢別の4隊を編成した。方位をつかさどる四神の名を冠して白虎隊(16、17歳)、朱雀隊(18~35歳)、青龍隊(36~49歳)、玄武隊(50歳以上)と名付け、身分で士中、寄合、足軽に分けた。

 《(編注)4隊の任務は、朱雀隊が第一線で戦う実動部隊、青龍隊が藩境の守備隊、玄武隊と白虎隊が予備隊の位置付け。ほかに砲兵隊や遊撃隊などもあって正規軍は約3000人。募集した農民・町民の兵約2700人と猟師隊や力士隊、修験隊なども加え、会津藩領内とその周辺で戦った同藩の全兵力は7000人超だった》

 鳥羽伏見の戦いの後、上野での戦いを経て東進した新政府軍は母成峠(現郡山市・猪苗代町)を越え、8月22日に猪苗代に侵入した。これに対し会津側は、白虎隊の士中二番隊が戸ノ口原に出撃した。

=この続きは、福島民友新聞社発行の「維新再考」保存版でお読みいただけます。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

 ※「識者に聞く」第1部で掲載された中村彰彦さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

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 なかむら・あきひこ 1949(昭和24)年生まれ。栃木県栃木市出身。宇都宮高、東北大文学部卒。文芸春秋勤務を経て91年から文筆活動に専念。主に幕末・維新期の群像を描いた作品を執筆している。94年の第111回直木賞を受賞した「二つの山河」など会津に関する著作が多い。68歳。