【奥州街道・全6回(1)】 "幻の関"芭蕉も追い求め

 
江戸初期、幕府に定められた奥州街道の「みちのく」の入り口。現在は国道294号となり福島・栃木県境。右手前には「從是(これより)北白川領」と書かれた石柱碑が見える。左手前から奥へ白河城下へ向かう

 元禄2(1689)年、俳聖松尾芭蕉は「奥の細道」へと江戸を旅立った。その約330年後。芭蕉の足取りを求め訪れた「みちのく」の入り口はどこか素っ気なかった。

 国道294号の福島・栃木県境は雑木と杉木立が続く坂道のピークにある。ここが奥州街道(奥州道中)の陸奥の入り口。芭蕉が越えた、いわゆる「白河の関」。特に関所があったわけではない。今も県境の標識と、芭蕉の時代すでにあった「境の明神」があるが、行き交う車は感慨なく通り過ぎていく。

 「白河の関」は中世から多くの歌人に愛された歌枕だ。しかし芭蕉は自身の句をここでは記していない。素っ気なさに感興が湧かなかった―とも思えてくる。

 須賀川市の俳人森川光郎さん(89)は「この時、芭蕉は心身ともに疲れ果て句ができなかったと、須賀川で友人の相良等躬(さがらとうきゅう)に話している」と解説する。芭蕉の疲れはこの後さらに増しただろう。実は関の正確な場所は不明だ。境の明神付近はあくまで近世の国境(くにざかい)。古代の関跡は、白河藩主松平定信がさらに南東の地点と定めたが、いまだ諸説が熱く語られる。芭蕉も関の幻を追い求めたようだ。

 芭蕉は境を過ぎた後、白河城下に真っすぐ向かわず白坂宿(現白河市白坂)の入り口を右に折れた。目的地は古道・東山道の宿場「籏宿(はたじゅく)」(同市旗宿)。古代の関があったとみられる地域だ。白坂宿から籏宿までは5、6キロの山道。小雨も降ってきた。疲れるわけである。

 東山道のあたりを県道伊王野白河線が走っていた。県境近くに「從是(これより)北白川領」の石の道標があるが「山火事注意」の看板の方が目立つ。北へ坂道を数キロ下ると白河関の森公園。さらに白河神社が、定信の定めた古関跡を守るようにある。旗宿の風景は愛想が良い。「春先はカタクリの花がきれい」と社務所の女性(70)も話す。

 神社前からは十数キロ先の市街地へ路線バスが出ていた。住民によれば60年前、旗宿の白河市合併の条件が路線存続だったという。

 みちのくの玄関は、まさに辺境だった。しかし近世以降、印象は少し違う。白河の街は交通の要衝として人々が行き交った。

 幕末の思想家吉田松陰が白河城下に入ったのは嘉永5(1852)年正月25日(陰暦)。松陰は「東北遊日記」に「(参勤交代の)奥羽諸侯必ず由(よ)るの地、市廛頗(してんすこぶ)る繁盛なり」と記し、中町の久下田屋に3泊している。現在も防備のクランクが残る目抜き通りには、大名の陣屋跡が点在する。

 同市の商店主金沢裕史さん(62)は「一帯が時の政権にとって古代は対蝦夷、中世は対伊達の軍事的要衝。白河は最前線の砦(とりで)の街。人も物も集まった」と辺境の風土が戦争と繁栄を呼んだとみる。

 戊辰戦争でも白河口の戦いは有名。馬や海産物など物資の集積拠点にもなり「那須温泉に卸す魚が集まったから、内陸なのに、すしがうまい」と金沢さん。

 繁栄は町人が支えた。公益財団法人立教志塾の人見光太郎副塾頭(72)は「白河藩主は代々、転勤してきたサラリーマン大名。一方、花街には江戸からたいこ持ちの修業に来たといい、馬市には悪党、遊女も集まった」。転勤族が持ち込んだ都会の風物が花咲いた。ただ人見さんは、シャッターの下りた店が目立つ今の街が心配なようだ。

 街のシンボル小峰城は震災で崩れた石垣の修復が進む。大型観光キャンペーンも始まった。白河駅前の白河観光物産協会では職員の大森翔さん(21)が「これが大好評」と街のイラストマップをくれた。

 レトロな駅舎の前で青空

 を仰ぐと霞(かすみ)が立っていた。これも風流かと思った。

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 【 記者の「寄り道」スポット 】

 境の明神=写真=は奥州街道沿いに県境を挟み立つ二つの神社。本県側が玉津島明神、栃木県側が住吉明神。「奥の細道」にも記され旅人が道中の安全を祈願した。玉津島明神には、芭蕉の句碑や南部藩士らが寄進した灯籠などが並ぶ。旗宿の白河神社は平安初期には存在したという古社。背後の森は関の森と呼ばれ、松平定信が寛政12(1800)年に建立した「古関蹟」の碑が残る。

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 名物「白河ラーメン」=写真=は「とら食堂」(白河市双石滝ノ尻)に代表される幅広の縮れ麺と、濃いめのしょうゆベーススープのものが多い。旗宿の「手打中華やたべ」(矢田部文男店主、電話0248・32・2007)も同様。ラーメンには、だしを取った後の鶏ガラに、ひと手間かけた「トリ」がサービスで付く。

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 白河小峰城=写真=は14世紀の築城で初代白河藩主丹羽長重が大改築した。戊辰戦争で被害を受けたが、1991(平成3)年に三重櫓(やぐら)、94年に前御門が復元された。東日本大震災では10カ所の石垣が崩落。立ち入り禁止になった三重櫓は修復を終え、ふくしまデスティネーションキャンペーンに合わせ19日、震災後初めて一般公開される。南湖公園は日本最古の公園で国の史跡。松平定信が本格的に造成、庶民も憩える場所として開放した。問い合わせは白河観光物産協会(電話0248・22・1147)へ。

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