【奥州街道・全6回(2)】 "旅人"慶次に恋する歴女

 
泉崎村と矢吹町の境に江戸時代の面影を残す五本松の松並木。幹の赤が青空に映える。夏は日を避け、冬は風よけとなり旅人を助け旅情をかきたてた

 奥州街道をたどる旅は、女石の追分(白河市)から国道294号を離れ、国道4号沿いに進む。

 白河市内の城下以北には、根田(ねだ)と小田川(こたがわ)の二つの宿場があった。小田川は今も大字に名を残すが、根田の名は道路地図では小さくあるだけ。勘を頼りに国道4号を右にそれると、真っすぐな道と蔵の並ぶ街道らしい景色があった。

 根田は幕末、戦火に焼かれた宿場だ。「戊辰白河口戦争記」(佐久間律堂著)には「只の一軒だけを残して皆焼かれたといふ。根田は、(会津藩などの)東軍に組みしてゐると見られたからである。根田と言へば猫でも犬でも憎まれたものだといふ。それで根田の部落には今日古文書などは一通も残っていない」とある。

 現在の大字「萱根」は、根田と隣の新小萱(にこがや)の集落が一緒になりできた。風情のある蔵にひかれ飛び込んだ根田醤油合名会社で、鈴木利彦社長(70)が、そう説明してくれた。約200年前からこの地で続く老舗。「幕末には詳しくない」と言う当主だが「10年ほど前、うちの店を知り『自分の名字も根田だ』と北海道から連絡をくれた人がいた。水戸浪士だった先祖が落ち延びるとき、世話になった根田宿の名を名乗った―と言っていた」。宿場の名も北へ逃れたのだ。

 西白河郡周辺は大小無数の丘が連なる。街道は、その丘の間を通り、上り下りを繰り返し突然曲がったりする。周辺の宿場の間隔が約2.5~3キロと比較的短いのも、起伏の大きさからか。迷いながら細い坂道を下ると見晴らしが開け、小田川の集落が見えた。

 街道の名残をとどめる真っすぐな家並みを抜け、太田川(泉崎村)までは国道と交わることなく進む。太田川の集落に入ると愛宕神社を正面に丁字路を右折。旧宿場の中心部を突っ切り、国道4号沿いの喫茶店「見附屋」に着いた。

 店主久保木寿大さん(59)の先祖は、この地を治めた戦国武将結城義顕の家臣。豊臣秀吉の奥州仕置で主君が領地を没収され、太田川に土着したという。江戸時代は宿屋を営み、米沢藩の家老も常宿にした。その血が騒ぐのか久保木さんも無類の歴史好き。今、夢中なのが武将前田慶次だ。

 慶次は戦国大名前田利家のおいで、上杉家にも仕えた実在の人物だが、小説や漫画の主人公として有名だ。そのヒーローが、慶長6(1601)年の京都―米沢間の旅を記したという「前田慶次道中日記」(「日本庶民生活史料集成」第8巻収録)には泉崎周辺の地名も登場する。

 近年の慶次人気で見附屋にも作家や歴女(歴史好きの女性)が話を聞きに訪れる。久保木さんも昨秋、慶次の足跡を徒歩でたどる大会を開いた。「歴女から『次はいつ開くのか』と問い合わせが来る」と店主。慶次ばりの人気だ。

 慶次が立ち寄ったという名所が踏瀬(ふませ)(泉崎村)の五百羅漢(らかん)だ。ただ、羅漢像はなく、実際は崖の斜面に作られた中世の板碑群(供養塔婆(とうば)群)。とはいえ、その光景には息をのむ。県指定史跡の板碑群の真上を蓋(ふた)をするように東北道が走っているのだ。この区間が開通したのは1973(昭和48)年。日本列島改造論華やかな時代。当時の開発のすさまじさを感じる。

 踏瀬から先は国道4号の東側を起伏に富んだ旧街道が続く。泉崎村と矢吹町の境付近は五本松と呼ばれ、赤松の並木が彩る。

 松並木は白河藩主松平定信が旅人の日よけ、風よけとして領内の街道に植えたのが始まりという。現在の松は1885(明治18)年ごろ植えられたものだが、青空に幹の赤が映える風情は慶次が旅した往時をしのばせる。

 【 記者の「寄り道」スポット 】

 江戸幕府の街道奉行が所管した奥州街道(正式には奥州道中)は白河城下の北、女石の追分(奥州街道と白河街道の分岐点)で終わる。女石以北は、仙台までが仙台藩管轄の仙台道と呼ばれたというが、今は一般的に旧国道4号に相当するルートが奥州街道と呼ばれる。

 根田醤油合名会社=写真=は江戸後期の創業。江戸時代は「検断(宿場の業務を統括する職)」を務めたといわれる。「二年もろみしょうゆ」「田舎みそ」が主力商品。問い合わせは同社(フリーダイヤル0120・233・037)へ。

奥州街道

 見附屋(電話0248・53・5644)の主力メニューは手打十割蕎麦(税込み1000円)=写真。秋・冬はおでん、春・夏は天ぷら付き。1日8個限定のレアチーズケーキ(同400円)には熱烈なファンも。店主制作の陶器や絵なども展示。

奥州街道

 踏瀬の「五百羅漢」の正式名称は「観音山磨崖供養塔婆群(まがいくようとうばぐん)」=写真。二瀬川沿いの高さ約10メートル、幅38メートルの岩肌に供養塔婆(板碑)320基が7段に並ぶ。鎌倉時代から室町時代にかけ彫られたという。