【奥州街道・全6回(4)】 暮らしを潤した「山水道」

 
郡山市のなかまち夢通りで郡山宿の歴史を伝える山水道のモニュメント。奥には旧街道の道しるべとして置かれた道路元標が見える

 奥州街道の旅は商都・郡山に入った。郡山市安積町笹川は、緩やかなカーブの旧街道に切れ間のない家並みが続く。街道の石碑を頼りに民家の間の細い道に入ると、阿武隈川の手前の高台にある東舘稲荷神社に着いた。境内には地元の安積町郷土史研究会と笹川区が38年前に建立した史跡篠川城跡碑があった。碑文には南北朝や室町時代に、この地方を治めた足利氏が拠点とした篠川御所の歴史が刻まれていた。笹川宿の史跡を訪ねると、多くが旧街道沿いにあることに気付く。研究会長の遠藤和さん(75)は「御所滅亡から約200年の時を超え、笹川宿が御所跡地にでき、御所の遺物が受け継がれた」と解説する。

 勢力を誇った足利氏の御所は郡山の歴史でも重要な位置を占めるが、市民の認知度はそれほど高くない。遠藤さんは、笹川集落で1910(明治43)年に起きた大火で、多くの文化財、史料が焼失したのが原因の一つとみている。研究会が碑を建立したのも御所の歴史に光を当てるためだった。遠藤さんは「御所の歴史を掘り起こし、多くの人に安積町の歴史の魅力に理解を深めてほしい」と熱意を語った。

 同市中央商店街は市内屈指の繁華街だ。旧街道の郡山宿として栄えた通りは2004(平成16)年、道路をきれいに改良し「なかまち夢通り」に生まれ変わった。店が立ち並ぶ通りの一角に復元された旧街道の道路元標(がんぴょう)、宿場町の各戸に約250年前から水を供給した木管水道「山水道」モニュメントがあり、独特の雰囲気を醸し出している。道路元標は江戸、会津までの距離などが記されていたという。山水道は井戸の湧き水を宿場町一帯に送り、旅人のもてなしや住民の暮らしを支えた。

 多くの人が行き交う歩道に足を止め、元標、山水道の横にある説明板に目を通すと、いにしえの旅人と出迎える宿場の住民たちで活気にあふれた宿場町の光景が思い浮かぶ。

 同商店街振興組合理事長の斎藤知二さん(68)は「商店街のにぎわいとともに、街道の歴史を伝えることも大切にした」と、なかまち夢通り完成の経過を振り返る。「街道の歴史、夢通りを大切に思うみんなの気持ちを一つに、お客さまに喜んでもらえる商店街にしたい」と熱意をにじませた。

 車の通行量が多い同市日和田町の旧街道沿いにある小高い丘「安積山」は現在、公園として整備されている。諸説あるが、安積山には采女(うねめ)が詠んだとされる万葉集の歌がある。

 安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに

 「安積山」は古くから歌枕として知られていた。元禄2(1689)年5月1日、俳聖松尾芭蕉と曽良が「奥の細道」紀行で安積山を訪れたのも、歌枕「花かつみ」の実物を探すためだったとされる。芭蕉は、何人もの地元の人に尋ね歩いたが、誰も知る人はいなかったという。

 長年、安積山の歴史を調べる郷土史研究家の橋本誠さん(70)は「もし花かつみが咲くころに芭蕉が来ていたら、安積山に芭蕉の句が残っていたかもしれない」と思いを巡らす。

 公園には、万葉集安積采女の歌碑、万葉の歌と采女伝説にまつわる山ノ井清水、奥の細道の碑があり、いにしえの時代をしのぶ静かなたたずまいがある。橋本さんが子どものころ、よく遊んだ安積山は古里の原風景と重なるという。「多くの旅人が安積山で足を休め、癒やされてきた歴史がある。かけがえのない宝です」と橋本さんは安積山への思いを語った。

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【 記者の「寄り道」スポット 】

 郡山市安積町字篠川124にある熊野神社=写真=は約600年前、篠川御所の館を築く時に御所を守護する神様をまつったとされる。元文元(1736)年に造り替えられた。1910年の笹川の大火で本殿が焼失したが、再建され、地元の総鎮守となっている。

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 郡山市日和田町日和田125にある市指定重要有形文化財の蛇骨(じゃこつ)地蔵堂=写真=は奈良時代の723(養老7)年に開山したとされる。蛇骨で刻んで作ったといわれている地蔵菩薩や霊蛇にまつわる伝説が伝わる。蛇穴や蛇枕石などの史跡も残される市内随一の仏堂建築。参道にはスロープがある。

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 郡山市の安積国造神社の秋季例大祭は毎年9月に開かれる。本祭りの山車まつり、後祭りの御輿還御(みこしかんぎょ)など3日間にわたり、地域ぐるみの盛大な祭りが繰り広げられる。御輿の宮入りが行われる表参道は境内から東に延び、国道4号を挟んで、同市中町のなかまち夢通り近くまで続く。商店街近くにある「一の鳥居」=写真=は、表参道の入り口になる。

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