【下野街道・全3回(1)】 幕府へ物資、盛んな往来

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旧街道の糸沢宿入り口に残る石碑。往時の様子を今も残している

 会津藩主だけでなく越後の新発田藩主も参勤交代で利用した下野(しもつけ)街道。会津西街道とも称される旧街道を今市宿(栃木県日光市)側から若松城(鶴ケ城)城下に向かって北上した。

 県境にある山王峠は東北と関東の境とされた交通の難所。曲がりくねった急な坂道が山頂に向かって続いている。峠には、休憩施設として茶屋が置かれていたこともあったという。初夏の日差しが照りつけ、数十メートル歩いただけで額から汗が滴り落ちた。日ごろの運動不足がたたり、両足の筋肉がすぐに悲鳴を上げる。道の途中で「斜面崩落危険」と書かれた看板を見つけ、これはしめたと、引き返すことにした。人力で米などを運んだ当時の山越えの厳しさが垣間見えた。

 山王峠のほぼ真下を走る国道121号の山王トンネルを抜けて南会津町へ。そのまま10キロほど北上すると、宿場町として栄えた糸沢宿が見えてくる。緩やかなカーブを描く約700メートルほどの旧街道沿いの両脇にはトタン屋根の家屋が軒を連ねる。「私が小さいころはかやぶき屋根の家ばかりで趣があったんだけどね」。この集落で暮らす湯田チエさん(87)が、かつての街並みや宿場の歴史について教えてくれた。

 糸沢宿は、若松城と今市を結ぶ下野街道の本県側に八つあったとされる宿場のうちの最南端に位置し、会津藩主ら要人が滞在したと伝えられている旧糸沢本陣が残る。当時は幕府に納める米などの物資の輸送で往来は盛んだった。かやぶき屋根の家屋ばかりだったが、若者が集落を離れていくようになった昭和の半ばごろから、かやぶき屋根は次第に姿を消していった。燃えやすく、維持管理が大変というのがその理由のようだ。

 国道121号から旧街道に入る分岐点には風雨にさらされ続けたためか、刻まれた文字が消えかかった石碑がたたずむ。旅人が道中の安全を願う往時の情景を思い浮かばせる。トタン屋根に変わっても、昔ながらの白壁造りの家屋は多く、宿場町の名残をとどめる。周囲に広がる里山は新緑に彩られ、耳を澄ませば雪解けで水量を増した阿賀川の流れが聞こえる。湯田さんは「集落を囲む自然は変わらない。長旅の疲れも自然の美しさが癒やしてくれたのでしょう」と話した。

 糸沢宿の中心に立つ龍福寺を訪ねた。1年半ほど前に39代目となった女性住職の松村明香(みょうか)さん(28)が本堂を案内してくれた。天井一面を埋め尽くすアヤメやユリなど四季折々の草花の絵の鮮やかさに目を奪われた。約200年前に会津藩の絵師見習いが描いたという作品。本堂を見渡すと、この絵師が手掛けた、太陽と険しい山が緻密に描写されたふすま絵に目が留まる。絵の中心に筆字が大きく記されているのを不自然に思っていると、「官軍兵士の落書きと伝わっています」と松村さんが説明してくれた。

 「芸州弐(に)番隊」という文字が逆さまに書かれているという。戊辰戦争で山王峠を越えて会津に攻め入ってきた官軍側の芸州藩(広島県)の兵士が龍福寺に宿泊した際、ふすまに記した。松村さんは「自分の隊の名前を後世に残すために書いたという説や、故郷の家族に手紙を書く前にふすまに試し書きしたという説などさまざまな解釈がある。戦争を前にどんな気持ちで文字を記したのか」と感慨深げに語った。

 時代の移り変わりで下野街道は戦の道ともなった。普段は何げなく通う道に積み重なる歴史の重みを感じた。

下野街道

【 記者の「寄り道」スポット 】

 南会津町田島の中心部にある鴫山(しぎやま)城跡=写真=。南山城とも称される山城。正確な築城年代は不明だが、記録から室町時代の1459年にはあったとされる。山の急斜面に設けられ、自然の地形を効果的に利用して敵の侵入を防ぐ構造が特徴。石垣や水のない堀など、かつての防御施設は今も残る。

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 南会津町田島の中心部を見下ろす愛宕山のふもとにある旧南会津郡役所=写真=。1885(明治18)年に建てられた擬洋風(ぎようふう)木造建築で県重要文化財に指定されている。館内には南会津郡の歴史に関する貴重な資料が展示されている。赤じゅうたんが敷かれた郡長室には重厚な雰囲気が漂う。

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 荒海農産物直売所そば処(電話0241・62・1107)は、南会津町田島の標高550~700メートルのソバ畑で栽培し石臼で引いた地粉を使った、香り高く食味に優れたそばが自慢。もりそば(税込み650円)山菜そば(同800円)会津地鶏そば(同950円)が人気メニュー=写真。店内ではそば粉のほか、旬のアスパラガスを販売している。

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