【陸前浜街道・全6回(3)】 "随一の景観美"波立海岸

 
陸前浜街道随一の景観とされる波立海岸。夕闇が迫る海岸沿いの国道6号に光が行き交う

 陸前浜街道をたどる旅はいわき市の磐城平城下を出発し、神谷(かべや)宿へと向かう。夏井川に架かる鎌田橋から北西を眺めると、平城跡と、そのかなたに名峰・水石山が見えた。山の中腹にある閼伽井嶽(あかいだけ)薬師(やくし)は江戸時代から平城下周辺で最も知られた名刹(めいさつ)だ。

 平城下を訪れた旅人の中には大河ドラマに登場した同志社大(京都)の創設者、新島襄の名前もある。「新島襄全集」の「函館紀行」には1864(元治元)年3月、船で函館に向かう途中の新島が中之作(いわき市)に寄港した際、平城下に立ち寄ったとの記述がある。新島は閼伽井嶽薬師を見物しようとしたが、雷雨に見舞われたため見物を諦め、平城下で1泊した。日記から見物できなかった無念さがにじみ出ている。後に妻となる会津藩出身の山本八重と出会う前の話だが、米国に行く直前の新島もまた寄り道に旅の妙味を感じていたのかもしれない。

 旧街道から鎌田山の裾をまわって国道6号を通り、北上した。同国道から再び旧街道に入り、街並みに往時の面影を感じながら進むと、神谷宿に着く。現在の同市平中神谷は笠間藩(茨城県笠間市)の分領で、平六小には藩の役所に当たる陣屋跡の石碑が立つ。剣術修業の旅をしていた佐賀藩士牟田文之助が1854(嘉永7)年5月に神谷宿を訪れている。道中日記には、郷宿(ごうやど)の佐藤長次兵衛方に宿泊し、郡奉行の立ち会いのもと、陣屋の侍と剣術の稽古をしたとの一文がある。江戸時代、旅に出た武士や文人は道中日記などを書くようになり、旅先での出来事などをつづった。

 郷宿という聞き慣れない言葉が気になり、寄り道をして佐藤長次兵衛の末裔(まつえい)の佐藤豊さん(91)方を訪ねた。「郷宿とは周辺の村から陣屋に訴訟を願い出た農民や、視察に訪れた笠間藩主らが泊まる宿だった。調停など今の家庭裁判所の役割も果たしていたと聞いている」。佐藤さんは自宅に残る古書をめくり、説明してくれた。旧街道沿いの佐藤さん方の庭には「従是東笠間領」「従是西笠間領」と、笠間藩領内を示した石柱が大切に保管されていた。従是は「これより」との意味だという。

 いわき市平中神谷から下神谷、草野と進み、四倉町に到着した。JR常磐線四ツ倉駅の少し先の街道脇に3本のクロマツの大木が立つ。旅人も木陰で休息したのかと思いながら、一息ついた。磯のにおいに気づく。海が近づいていることを浜風が知らせてくれた。四倉宿は漁村としても栄えた。浜で水揚げされる魚介類の量も多く、平城下の食の補給地としての役割を果たした。生産されるかつお節は特に有名で「奥州磐城節」として江戸の台所を支えた。

 四倉宿を後にし、岬の突端の曲がりくねった道を行くと、同市久之浜町の江之網の入り江が見えてくる。山路や田園地帯を越え、浜街道という名前にふさわしい海岸美とようやく出合えた。今も昔も浜街道随一の景観とされる波立(はったち)海岸が旅人に感動をもたらす。「陸奥の木奴見(こぬみ)の浜に一夜寝て 明日や拝まむ波立の寺」。鎌倉時代初期の歌人西行は、一刻も早く絶景を望みたいとの思いを短歌にした。

 波立薬師でお参りし、隣接する波立寺に立ち寄る。「風光明媚(めいび)であり、誰もが一目見たい場所だからこそ、お寺が建ったと思う」。皆川岱寛住職(54)の言葉に納得した。住職は津波の被災直後や復興に向かう久之浜地区のことも話してくれた。砂浜には久之浜の人々の復興への願いが込められたハマヒルガオがかれんな花を咲かせていた。

陸前浜街道

【 記者の「寄り道」スポット 】

 いわき市四倉町の旧街道沿いに3本のクロマツの大木=写真=が行儀よく並ぶ。高さはいずれも18.9メートルで、樹齢約300年。磐城平藩内藤家の時代に植えられた。傍らに設置された市の案内板には「間隔が狭いのは苗木の時に植えられたまま今日に至ることを示している」との補足説明がある。

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 いわき市四倉町の旧街道沿いにある大川魚店(電話0246・32・2916)。小名浜で水揚げされたカツオや試験操業で捕れたカレイ類など旬の魚が並ぶ=写真。自家製のかす漬けも有名で地方発送もしている。所狭しと並ぶ約300種類の魚介類や水産物加工品は、いわきの海の豊かさを表している。水曜日定休。

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 いわき市久之浜地区の海岸でハマヒルガオが薄紅色の花を咲かせており=写真、白い砂浜、青い海とのコントラストが見る人の心を癒やす。ヒルガオ科、つる性の多年草で震災前は波立海岸に群生していた。生息域は震災の津波で壊滅的な状況となったが、地元有志が植栽や手入れなどを行い、毎年少しずつだが、数を増やしている。

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