【二本松街道・全3回(3)】 屋号残る藩番所跡周辺

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猪苗代町の壺下宿の家並み。楊枝峠を下ってすぐの宿場町。会津藩の番所があり宿場町で栄えた姿が今に残る

 二本松街道の旅も終盤。二本松、会津両藩を分ける猪苗代町の楊枝(ようじ)集落跡から会津盆地へと進む。

 山峡の道を西に下ると、国内4番目の広さを誇る猪苗代湖を望めた。満々と水をたたえ、天鏡湖の別名通り湖面がきらりと輝く。中通りから峠を越える旅人にとって「会津入り」を感じる光景だ。

 まずは会津藩の番所があった壺下(つぼろし)宿に入る。江戸期は現在の宿泊施設の旅籠(はたご)が立ち並び、今もその風情が残る。藩境に近い交通の要衝として栄えたが、交通環境の変化で寂れた。

 江戸期の村役人「肝煎(きもいり)」を務めた土屋家の当主で町教育長の土屋重憲さん(69)が「加登屋や古川屋など住民は今も屋号を使う。宿場町の風習や文化は残っている」と教えてくれた。

 西端の山すそにある切り通しに番所が置かれ、物資などが不正に運び出されるのを藩の役人が見張った。番所跡に立つと、切り通しの両側に茂る木立の先に磐梯山が見えた。時に旅人を迎え、時に旅人を見送る磐梯山に当時の人々は何を思ったか。しばし感傷に浸った。

 同町川桁の山すそに沿って北へ。関脇宿に入る。

 壺下、関脇、都沢と三つの宿場が並び、関脇には安産の守り神として信仰を集める優婆夷堂(うばいどう)がある。都沢宿には樹齢約700年の大イチョウと「六地蔵」が安置された地蔵堂がたたずむ。

 長瀬川の渡しがあった東舘と西舘の集落を過ぎると、戊辰戦争で焼失した亀ケ城の城下の猪苗代宿に着く。

 「街道は歴史の証しなのだが...」。西舘集落に住む猪苗代地方史研究会事務局長、鈴木清孝さん(68)は街道沿いの建物や風景の変化に危機感を抱く。

 城下から歴史ある街並みが消え、街道の痕跡は小さな道標が残るのみとなった。「街道の存在を広く知ってもらうことから取り組みたい」と思いを語る。

 この先、二本松街道は、本街道と、猪苗代湖畔を通り会津若松市へと向かう道の二手に分かれるが、本街道の磐梯山麓を西進した。途中、松並木や一里塚があり、往時をしのばせる。

 磐梯山を眺め、万葉集にある磐梯山を詠んだ歌を思い出した。

 会津嶺(あいづね)(磐梯山)の 国をさ遠み 逢(あ)はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐(ひも)結ばさね

 (会津嶺のある国を遠く離れ 逢えなくなったら 偲ぶよすがにするので 下紐を結んでほしい)

 作者不詳だが、男性が女性に対して詠んだ歌だ。当時、「下紐を結ぶ」というのは男女の別れ際の習慣を指し、旅先での無事を願う、まじないでもあった。

 磐梯町の中心部は、平安初期に建立された慧日寺(えにちじ)に由来し「大寺(おおてら)」と呼ばれた。現在は人口減少が進み、昔のにぎわいはみられない。

 街道沿いでひときわ目立つのは横達集落の肝煎だった穴沢家の長屋門。17代当主穴沢真澄(ますむ)さん(66)は「先祖から受け継いだ歴史を後世に伝えていきたい」と語る。

 中世の慧日寺を描いた絵図では、大寺に民家は数戸しかなかった。江戸期になり、会津藩初代藩主保科正之をまつった土津(はにつ)神社への参拝経路として発展した。

 町文化財調査委員の阿部照子さん(88)は「大寺周辺は信仰とともに発展してきた。今も慧日寺など信仰を通した地域活性化が求められている」と話す。

 街道は会津若松市に入り、鶴ケ城城下へと向かう。中通りと会津を結ぶ街道の痕跡は減りつつあるが、人々の心にしっかりと息づいていた。

二本松街道

 【 記者の「寄り道」スポット 】

 街道沿いの猪苗代町字梨木西にある洋菓子店「パティシエ ビルゴ」(電話0242・62・5472)。町中心部にあった和菓子・パン店の跡取りだった菅野康浩オーナーパティシエ(55)が創業した。定番商品はタルト生地のチーズケーキ「ケーゼ」(1ピース300円、1ホール2200円、税別)=写真

二本松街道

 会津松平家の初代保科正之の墓所=写真=は猪苗代町の土津(はにつ)神社にある。2代将軍徳川秀忠の子で将軍の後見役として幕府の実権を握った。1672(寛文12)年に62歳で亡くなると、遺言通り猪苗代湖が一望できる磐梯山嶺に葬られた。円墳や履歴を刻む石碑がある。

二本松街道

 法相宗の僧、徳一が平安初期、磐梯町に開いた慧日寺(えにちじ)=写真。平安中期に興隆を極めたが、戦国期の戦火に巻き込まれ焼失した。国指定史跡に指定され、金堂や中門が復元されている。近くにある磐梯山慧日寺資料館(電話0242・73・3000)には発掘成果や関連資料などが展示されている。

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