【越後街道・全3回(1)】 "大正浪漫"残す物流基地

 
城下の西の玄関口で、最も大きい繁華街として問屋や旅籠が軒を連ねた七日町。現在は大正浪漫を感じさせる通りとして人気を集めている

 会津若松市の鶴ケ城城下から会津坂下町、西会津町を経て新潟県新発田市に至る越後街道。新潟側から会津街道と呼ばれる道は、会津への文化伝来の役割を果たし、生活に欠かせない塩の道でもあった。江戸期は会津からコメや漆器など、越後からは海産物などが運ばれた。

 1611(慶長16)年の慶長会津地震で会津盆地から野沢宿(西会津町)に続く道筋が大きく変わった。阿賀川がせき止められて道が水没したため、会津坂下町から喜多方市高郷町に抜ける道が通行できなくなった。そこで南側に道を造り、新たに整備した坂下宿(会津坂下町)などが発展した。

 越後街道の旅は江戸初期から明治期まで使われた道筋を進み、往時の面影を訪ねる。まずは鶴ケ城城下にある街道の起点「大町四ツ角」を出発、秋色に染まる会津盆地を西に向かった。

 城下一の繁華街の七日町。「七」の日に定期市が開かれたことが町名の由来で、城下の西の玄関口として問屋や旅籠(はたご)が軒を連ねた。江戸後期は城下の約3分の1に当たる30軒の旅籠が集中した。会津藩の地域特性をまとめた地誌「新編会津風土記」は、東西を貫く約1キロの通りに集まった家の数が149軒と伝える。

 「江戸期の七日町はまさに物流基地。人馬や荷物が行き交った」。かつて海産物問屋だった「渋川問屋」の渋川恵男社長(68)は当時を想像する。現在は明治、大正期に建築された蔵や木造家屋を改修して旅館と郷土料理店を営む。「歴史的な建物や町並みには先人の知恵や心意気が詰まっている」と誇る。

 通りは明治、大正期の繁栄から一転、昭和の高度成長期に衰退した。「通りを歩く人がいない。危機感ばかりが募った」。畳の材料などを扱う「稲忠」の稲村忠兵ヱさん(83)と妻キミ子さん(76)は振り返る。

 渋川さんや稲村さんらが立ち上がり、1994年に「七日町通りまちなみ協議会」を設立。歴史的な建造物を観光に活用、大正浪漫のまちとして生まれ変わった。「商人は常に諦めない努力が大事」とキミ子さんはたくましい。

 七日町を過ぎると湯川に架かる「柳橋」がある。かつて近くに刑場があり、罪人は罪を悔やんで涙を流した。見送る家族も泣いて別れを告げたため「涙橋」とも呼ばれた。

 戊辰戦争時は、のちに娘子(じょうし)隊と呼ばれた藩士の婦女子が奮戦した場所でもあり、戦死した烈女、中野竹子の殉節碑も近くにある。

 「もののふの 猛きこころに くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも」

 なぎなたの柄に結び付けていたという竹子の辞世の句が心をよぎり、柳の木が茂る涙橋の光景が心に残った。

 会津盆地の広大な景観と黄金色の田んぼを眺めながら進むと、上杉景勝築城の未完成の巨城「神指城」の跡が目に入る。国道49号と合流して磐越道を越えると、最初の宿場である高久宿に着く。

 「江戸時代は舟運基地としても重要な場所だった」と話すのは江戸期の役人「肝煎(きもいり)」を務め、会津藩の塩を扱った豪商、松川家に嫁いだ泰子さん(65)。阿賀川近くの高久宿は舟運機能を持ち、商家が発展した。

 松川家には江戸後期に藩命で越後に取引に行った先祖の書物が残されている。

 街道は北の外れにある松川家で西に折れる。阿賀川を舟などで渡って対岸に行き、次の宿駅の坂下宿へと向かう。

越後街道

【 記者の「寄り道」スポット 】

 会津若松市七日町の阿弥陀寺=写真。境内にはかつて鶴ケ城本丸にあり、密議の場所として使われた建物「御三階(おさんがい)」が残されている。戊辰戦争で戦死した会津藩士を合葬した東軍墓地をはじめ、新選組の三番隊組長を務めた斎藤一の墓もあり、七日町を訪れた際にはぜひ足を運びたい場所だ。

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 会津若松市七日町5の17にある和菓子店「菓子司 熊野屋」(電話0242・22・7411)は「生どら焼」=写真=がお勧め。こだわりの材料でふんわりとした食感に仕上げており、生クリーム、抹茶、キャラメル、チーズ、チョコなど種類は豊富。価格は1個160円(税込み)。

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 湯川村の勝常寺(しょうじょうじ)=写真=は東北有数の由緒ある古寺。9世紀初めに開山したとされ、国宝の薬師如来坐像と日光・月光菩薩立像の薬師三尊像など平安前期の仏像が12体残る。奈良、京都以外の一つの寺院で多数の仏像が見られるのは全国的にも珍しい。問い合わせは同寺(電話0241・27・4566)へ。

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