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露営の歌
生誕100年記念
露営の歌
「露営の歌直筆色紙」(古関裕而記念館提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(11)2009.03.30

戦地での印象メロディーに
 1937(昭和12年7月7日、「運命の一発」(半藤一利『昭和史』)から盧溝橋(ろこうきょう)事件が起こり、日中戦争へと拡大しました。
 古関は妻金子とともに同年7月、戦火激しい中国へ旅立ちました。金子の兄や妹たちを訪ねるためでした。その帰路、日露戦争の激戦地・旅順戦跡に立ち寄り、「力で奪う国の領土争いの悲惨な犠牲の痛ましさに感極まった」と自伝(『鐘よ 鳴り響け』)で述べています。また、「その時の強烈な印象がメロディーとなり『露営の歌』になった」とも述懐しています。

■藪内は本社編集局長
 「露営の歌」は37年7月、大阪毎日新聞社と東京日日(現毎日)新聞社が共同で戦時歌謡を募集した際、第二席に入選した歌詞で、作詞者は藪内喜一郎でした。藪内は奈良県出身で、当時は京都市役所に勤務、後に読売新聞社を経て、福島民友新聞社に出向し、編集局長まで務めた文化人でした。
 毎日新聞社の戦時歌謡募集の第一席は「進軍の歌」(本田信寿作詞・陸軍戸山学校作曲)でした。コロムビアは第一席の「進軍の歌」を大々的に宣伝しましたが、「露営の歌」の「勝ってくるぞと勇ましく/誓って国を出たからは/手柄立てずに死なりょうか〜」の哀調を帯びたフレーズが最前線の兵士の好むところとなり、未曾有(みぞう)の大ヒットとなりました。

■心打つヒューマニズム
 古関音楽の特長の一つに、ヒューマニズム(人道主義)があります。
 古関は38年8月、中国の九江で開催された軍楽隊の演奏会に出席。「露営の歌」の作曲家として挨拶(あいさつ)を求められた古関は、「兵士達(たち)の何人が無事帰れるのかと思うと、万感胸に迫り、絶句して一言もしゃべれなくなり、ただ涙があふれてきた」(自伝)のでした。
 彼の戦時歌謡には、他人の痛みを自分の痛みとして感じるヒューマニズムが流れており、それが哀愁を帯びたメロディーとなって人々の心を打つのではないでしょうか。
   
露営の歌
「露営の歌」歌碑前の古関夫妻。昭和16年、京都(古関裕而記念館提供)
    メ  モ                                     
軍歌と戦時歌謡
 軍歌と戦時歌謡 古関が戦時歌謡を作曲したことは紛れもない事実です。しかし、軍歌と戦時歌謡とでは本質的な違いがあります。古関の作曲は軍歌(軍委嘱の曲で師団歌や連隊歌)ではなく、映画主題歌や新聞社等で募集した時局歌で、大衆の好んだ流行歌でした。

 


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