古関裕而『うた物語』TOP
若鷲の歌
生誕100年記念
若鷲の歌
「若鷲の歌」歌碑=陸上自衛隊武器学校庭園内、茨城県
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(15)2009.05.11

予科練生の心打ち 選ばれる
 1943(昭和18)年5月、戦時下の東宝が予科練習生の映画「決戦の大空へ」を制作することになり、古関はコロムビアから主題歌を依頼されました。作詞は西條八十で、古関は西條とともに、土浦航空隊に一日入隊、若き航空士たちの生活を取材し、「若い血潮の予科練の/七つボタンは桜に錨(いかり)〜」との歌詞が誕生しました。

■長調の曲には満足できず
 予科練習生とは、小学校高等科卒業生と旧制中学4年生修了者を主とする志願制度で、厳しい訓練の後に飛行科下士官を養成した制度です。卒業生の8割が戦死したという報告もあるため、若い練習生への同情が多く集まりました。
 古関は「やっと出来上がった曲は長調の曲であったが、満足がいかず、披露のため土浦に出かける途中のわずか十数分の間に、16小節の短調のメロディーが浮かんできた。ここに2つの曲が誕生したので『学生に聞かせて決めよう』ということになり、全員を集めて歌を聴かせたところ、ほとんどの学生が短調の曲を支持し『若鷲の歌』が誕生した」(自伝『鐘よ 鳴り響け』)と述べています。

■単純で明快なメロディー
  数日後、歌手霧島昇らによって録音を終え、レコード裏面には「決戦の大空へ」(作詞西條八十、作曲古関裕而)を収録しました。映画は9月16日、全国一斉に封切られ、レコードも同日に発売、瞬く間に全国に広まってゆきました。封切り日に映画を見に行った古関は、映画を見終わった大勢の小学生たちが「若鷲の歌」を歌っているので、「この単純で明快、短調でありながら暗さのない曲は、少年たちの胸に飛び込んで行ったのである」(自伝)と、述べています。
 権力を持たない市民が古関の戦時歌謡を歌う時、兵士は故郷や家族を思い、残された家族は異境の地に派遣された夫や息子の安否を心配していたに違いありません。古関メロディーには、望郷や諦(あきら)め、悲壮感や孤独の心情が含まれ、それが人々の心を打ち、歌い継がれたのではないでしょうか。
    メ  モ  
  
 西條八十 

 1892(明治25)年、東京生まれ、実家は石けん製造業。1904年、早稲田中学に入学。特に吉江喬松の感化を受けました。卒業後フランスに留学、母校早大の仏文科教授に就任し、70年8月、心不全で逝去。代表作は「砂金」「アルチュール・ランボオ研究」など。

 


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