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ああ此の涙をいかにせん
生誕100年記念
「ああ此の涙をいかにせん」の歌詩(永井隆記念館提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(24)2009.07.20

原爆への怒りを詩にこめる
 1999(平成11)年5月、筆者は長崎市の永井隆記念館を訪ねました。当時の館長は、被爆者を救った永井隆の長男永井誠一(まこと)で、「ご苦労さまです」と、長旅の労をねぎらってくれました。約50年前に永井隆から古関に送られた手紙の複写をお見せしたところ、誠一はハラハラと涙を流し、重い口を開いて当時の様子を語ってくれました。その時、陳列戸棚に展示してあったのが、今回の写真の詩「ああ此の涙をいかにせん」でした。
 「鐘なりわたれり/きよらけき/君がいませし/日のごとく」
 作詞は「長崎の鐘」と同じサトウ・ハチローで、曲のサブタイトルには「つつしんで天国へ旅立たるる永井隆博士に捧(ささ)ぐ」とあります。ハチローの弟の節(たかし)も「広島原爆の犠牲になっています」(佐藤愛子著『血脈』)。ハチローの詩作には、原爆で肉親を失った悲しみと怒りがこもっていました。

 ■永井隆の被爆
 永井隆の経歴を述べてみましょう。永井は敬虔(けいけん)なカトリック教徒で、当時は長崎医科大レントゲン科助教授として勤務。しかし、45年6月には、長年にわたって放射線を浴びた職業病として「慢性骨髄性白血病」(永井誠一著『永井隆』)と診断され、余命3年の宣告を受けました。その2カ月後、8月9日の長崎への原爆投下によって被爆。「右側頭部動脈切断の重傷」を負いながらも献身的に被爆者の救護活動に従事しました。
 永井は、原爆で最愛の妻・緑を失ってしまいました。幸い子ども2人は田舎に避難していたため被爆を免れましたが、永井の病状は次第に悪化、51年5月1日、「帰天」(同書)しました。
 「わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となって、わがやの焼け跡から拾わねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は急性原子病によって、予定より早く廃人となりはててしまった」(永井隆著『この子を残して』)
 人類せん滅の最終兵器は、広島や長崎でその正体をあらわにし、無辜(むこ)の人々を地獄の苦しみに陥れたのでした。(敬称略)
    メ  モ  
 サトウ・ハチロー
 1903年、作家の佐藤紅緑の長男として東京に誕生。中学に入学後、父へ反抗し中学校落第などを繰り返します。38年、コロムビアの専属契約となりました。主な作品は「リンゴの唄」「長崎の鐘」「ちいさい秋みつけた」など。73年没。

 


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