古関裕而『うた物語』TOP
ニコライの鐘
生誕100年記念
左から作詞家の藤田まこと、門田ゆたか、野村俊夫
(昭和35年ごろ、野村俊夫提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(26)2009.08.03

音楽で人に夢と希望を与える
 1951(昭和26)年12月、福島市出身の作詞家門田ゆたかと古関は「ニコライの鐘」を発表しました。この曲は、大ヒットした「長崎の鐘」の後継曲としての使命を帯びて発売されたようです。
 古関は自伝の中で、「この歌はコロムビアから発売された。『青い空さえ小さな谷間/日暮れはこぼれる涙の夕陽』の歌詞を藤山一郎君が歌いヒットした。作詞者の門田氏は西條八十先生の門下で、『東京ラプソディ』(作曲古賀政男)がヒットした。父上が福島で在職中に生まれたと言っておられた。人柄も温厚、抒情派の詩人だった」(『鐘よ 鳴り響け』)と述べています。
 作詞家門田は本名門田穣(ゆたか)といい、古関の2歳年長です。父の転勤のため宇都宮や名古屋に転居し、一時は福島市の福島第一小にも在籍しました。
 彼の代表作は何といっても「東京ラプソディ」と「ニコライの鐘」でしょう。ハワイアン音楽では「月の夜は」「林檎の木の下で」が有名で、戦後の流行歌としては「東京の花売り娘」なども一世を風靡(ふうび)しました。彼の歌謡曲がヒットした時代は主に戦時中で、「東京ラプソディ」は昭和11年の作品、また「月の夜は」は、昭和15年の作品でした。

快い旋律で異国情緒
 当時の日本は軍国主義がはびこる、不幸な時代でした。しかし、門田は、困難に直面していた国民に、あくまでもリズミカルで快い作詞と旋律を提供しました。また得意のハワイアン音楽によって、異国に対する多くの夢や希望を与えていたのではないでしょうか。門田の歌に触れた人々は、まだ見ぬ南国情緒を夢みて、苦難の時代に耐え続けたのでした。 
 一方、「ニコライの鐘」に登場するニコライ堂は、東京・御茶ノ水駅のそばにある、キリスト正教会の大聖堂で、夏目漱石の「それから」にも登場する重要文化財指定の石造建築です。藤山一郎は「あの鐘は教会の鐘を鋳造したことのない人が作ったのか、凄(すご)い不協和音で、戦後のすきっ腹にこたえた。しかしレコードの鐘は美しい音色で鳴っている」と述懐しています。
    メ  モ  
 門田 ゆたか 
 作詞家。1907(明治40)年1月、現在の福島市で誕生。父は元福島民友新聞記者。宇都宮中学などを経て早稲田大に学び、その後中退。早稲田では、西條八十に傾倒し、「蝋人形」の編集にも携わりました。75(昭和50)年6月、68歳で逝去。   

 


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