古関裕而『うた物語』TOP
あこがれの郵便馬車
生誕100年記念
前列左から古関、歌手の奈良光枝、後列左から丘、歌手の青木光一、作詞家野村俊夫(昭和26年ごろ、古関家提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(27)2009.08.10

旅に対する憧れ歌に込める
 作詞家丘灯至夫(おかとしお)は古関の性格を「粘り強い方だった」と語っています。
 「私が古関さんのお宅へはじめてお伺いしたのは、昭和11年の春だった。古関さん作曲の『船頭可愛や』が、音丸さんの歌で全国津々浦々に流行した直後だった。私が詩人西條八十の弟子であり、古関さんと同郷ということで、夫人と共に快く逢(あ)ってくださった。『(古関さんは)流行歌は不得手なので、はじめは童謡ばかり書いていた…』と、自著に書いておられる。今ならレコード会社も見放すか、本人があきらめて飛び出すか…だろうが、会社も辛抱強かったし、本人もかなり粘り強い性格だったに相違ない」(丘灯至夫「古関メロディーと私」)
 ■サトウ・ハチローが一喝
 丘は「あこがれの郵便馬車」の誕生エピソードにも触れています。
 《1951(昭和26)年「あこがれの郵便馬車」を岡本敦郎さんが「南の丘をはるばると郵便馬車がやってくる/うれしい便りを乗せて…」と軽やかに歌ったところ、サトウ・ハチローに「そんなものはない」と叱しかられました。私は憧(あこが)れだから作ったのだと言いましたが、ある時、古関さんに「昔、北海道にあった」といわれ、安堵(あんど)しました。私が乗り物の歌を作るのは、昔、体が弱いため、遠足にも修学旅行にも行けず、旅に対する憧れが乗り物の歌になったのです。まだ作っていないのは「乳母車の歌」と「霊柩車の歌」くらいです。これから作るのは間に合わないので、あの世で作りたいと思います》(講演「青春の詩は今もなお」より)
 昭和50年、古関が東京中央郵便局の「1日局長」に就任した時、局員がバンドを結成して「あこがれの郵便馬車」を演奏、歓迎の意を表しました。そこで古関が郵便局の方に郵便馬車の存在の有無を尋ねたところ、「昭和の初め頃(ころ)は局と局の間の配達に使用した」との答えが返ってきたと言うのです。
 丘は昨年7月、「あの世はパラダイス」と「霊柩車れいきゅうしゃはゆくよ」の2曲のCD発売を果たし、健在ぶりをアピールしています。
    メ  モ  
 丘灯至夫 
 現在92歳。大正6年、小野町に生まれ、郡山商業学校を卒業しました。昭和10年、西條八十に師事し、歌謡・童謡などの作詞生活に入りました。丘のデビュー作は昭和12年の「焦れったいわね」で、作曲は東三吉。東とは古関のペンネームです   

 


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