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二本松少年隊の歌
生誕100年記念
二本松少年隊の歌
「二本松少年隊の歌」直筆楽譜(古関裕而記念館提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(33)200910.12

非業の最期を後世に伝える
 江戸末期の1867(慶応3)年、二本松藩の西洋流砲術師範の長男木村銃太郎は、江戸での修業を終えて二本松に戻り、砲術指南をしていました。門下生は、13歳を最年少とするあどけない少年ばかりでした。
 幕末の混乱が一層深まった翌年1月、鳥羽伏見の戦いが起き、約1年半にわたる戊辰戦争が始まりました。東北諸藩は、奥羽越列藩同盟を結成し、新政府軍に対抗しました。
 藩存亡の危機に、二本松藩の少年たちも出陣を願い出ましたが、若年とあって当然聞き入れてもらえませんでした。二本松藩士たちは、矢吹や須賀川方面に転戦し、二本松城内、城下は空虚同然、残るは少年や老人、農民らわずかな軍勢にすぎませんでした。これに対し、新政府軍は三春藩の降伏後、二本松城周辺まで迫り、各地に応援兵を出し尽くした二本松藩は、断腸の思いで少年たちに出陣許可を出したのでした。
 木村銃太郎率いる砲術部隊は最大の激戦地、城南の大壇口(おおだんぐち)に出陣し、門下生16人を含む25人の少年隊士は奮戦。ほかにも城内外に12歳から17歳までの少年たちが出陣し、合わせて62人の少年が戊辰戦争に参戦したのでした。
■白虎隊に優るとも劣らない
 多勢に無勢の中、二本松少年隊は、隊長の木村が重傷を負い、戦死。副隊長も後に続きました。少年隊を弔う大隣寺の一角には、「少年隊士は各々勇敢に戦い続け、敵弾に倒れ、返り討ちに合い、計14名の戦死者を数えた。時代の流れとはいえ、維新の夜明けを待つことなく、義に殉じた純粋可憐(かれん)な少年たちは、会津白虎隊に優(まさ)るとも劣らない」と書かれてあります。「風に乱るる前髪も/まだあどけなき美少年/主君の大事このときと/降らす血の雨たまの雨/ああ花と咲く少年隊」
 歌詞は野村俊夫が担当しました。野村は、昭和29年には「白虎隊の歌」も作詞しており、少年たちの非業の最期は、永く語り継がれることでしょう。また、作曲の古関は二本松に親せきがあり、さらに歌手伊藤久男は安達中学に通学するなど、共に二本松の歴史と風土を知り尽くしており、伊藤は重厚で格調ある歌唱力で悲運を伝えています。
    メ  モ  
 映画「二本松少年隊」 
 1940(昭和15)年、松竹映画として封切られました。主演は高田浩吉で、主題歌も高田自らが歌いました。57(同32)年、再び「二本松少年隊の歌」が作られ、歌詞は野村、作曲古関、歌手伊藤という「コロムビア三羽烏」の豪華陣でした。   

 


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