【 会津若松・大町通り(下) 】 にぎわい呼ぶ玄関口 鉄道でき発展

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彼岸獅子の絵柄のバナーやのれんが掲げられている大町通り。商店主らはかつてのにぎわいを取り戻そうと前向きに取り組んでいる

 1899(明治32)年、現在の会津若松市と郡山市を結ぶ岩越鉄道(現・磐越西線)が開通した。「鉄道なくして会津の発展はない」。会津の人々は鉄道を熱望し、ばくだいな敷設費用を集めた。汽笛を響かせた蒸気機関車が到着すると、若松停車場(現・会津若松駅)には「彼岸獅子」の囃子(はやし)が鳴り、喜びに沸いた。鉄道輸送力の確保で会津漆器や酒など地場産業の販路が拡大し、飛躍的に発展した。

 鉄道敷設の功労者として、本県出身者で初の福島県知事となった元会津藩士の日下義雄が知られる。日下自身は開通前に弁理公使(外国大使)となり本県を去るが、若松での送別会は多くの参加者で埋め尽くされたという。

 会津藩のおひざ元・会津若松市の「大町通り」は米沢上街道が通り、漆器業や酒造業が栄え、まさに会津の中心地だった。現在も江戸・明治期の店蔵や洋風・和風の歴史的な建築が並び、繁栄の面影を残す。明治以降は鉄道が新潟まで延びるなどして往来が激しくなると、鶴ケ城方面へと向かう「鉄道の玄関口」となった。

 ◆願い込め飾る

 「昭和30年代の大町通りは駅利用者が大勢歩き、商店街もずいぶん活気があった」。大町通りで1931(昭和6)年から営業する「遠藤時計店」の3代目・遠藤俊夫さん(82)は当時を振り返る。高度経済成長の中、会津各地から大勢の客が立ち寄った。「大町通りは生活に密着した会津有数の商店街だった」

 一方で昭和後期になると、社会情勢の変化で大町通りに空き店舗や空き地が目立つようになる。危機感を強めた商店街や地域住民は活性化対策を講じてきた。現在、中心となっているのが商店街や町内会などでつくる「大町通り活性化協議会」だ。最終目標として「かつてのにぎわいを取り戻す」ことを掲げている。

 同会のかじ取り役は、おけ屋として1930年に創業した「田中風呂センター」の5代目・田中耕太郎さん(53)だ。田中さんは「玄関口である大町通りから市街地を元気にしていきたい」と意気込み、「まずは若者に大町通りを認知してもらうことが大事。それが誘客や新規出店につながるはず」と語る。

 3月末から「彼岸獅子」の絵柄のバナーやのれんを飾り始めた。同会が所属する市の「まちなか賑(にぎ)わいづくりプロジェクト実行委員会」の企画で、商店の軒先などに掲げられた。会津に春を告げる彼岸獅子にあやかり、幸福が舞い込むよう願いを込めた。大町通りにはきょうも彼岸獅子が舞っている。

会津若松・大町通り(下)

 ≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪

 【新政府軍の戦死者眠る墓地】東明寺境内には「西軍墓地」があり、戊辰戦争で会津に攻めてきた新政府軍の薩摩や長州、土佐の各藩などの戦死者が眠る。一時荒廃していたが、昭和中期に西軍関係の山口県などが協力して整備した。現在は地元住民らでつくる「西軍墳墓史跡保存会」が清掃・管理している。

会津若松・大町通り(下)

〔写真〕地元住民が清掃・管理している西軍墓地