【 郡山・駅前アーケード商店街(下) 】 『希望』背負い生まれた街

 
地元のおもちゃ専門店として商店街で看板を守る晴一さん(右)、晴彦さん親子

 「雨にぬれないで買い物できるということで、アーケードを造るのは時代の流れだった」。郡山市の駅前アーケード商店街を含む柳町自治会の元会長で、おもちゃ専門の「トイス・かんの駅前本店」会長菅野晴一さん(92)は、アーケードが初めて建設された59年前を思い起こす。

 同商店街は昭和初期に「すずらん通り商店街」として設立。街灯の傘がスズランの花のような形をしていたことから、名付けられた。戦後の1948(昭和23)年、当時映画館だった富士館ビルをはじめ、76棟を全焼し、421人が焼け出される「柳町大火」があった。商店主らが戦災と大火からの復興への足掛かりとして考えたのが、両側の店舗から、通り全体に屋根を架けるアーケードだった。通りに軒を連ねる60店舗が団結、58年に完成に至り、「すずらん通りアーケード商店街」として生まれ変わった。

 晴一さんは、同商店街が当時、発行した新聞を大切に保管している。1面に「東北一の天蓋式アーケード郡山に生まる」の大見出し。「横のデパート化」「この街ばかりは三百六十五日お天気です」の文字も躍る。待望のアーケード完成を喜び、期待を寄せる地元住民の思いが伝わってくる。

 雑音の中勉強

 アーケードは老朽化に伴って73年に架け替えられ、商店街も現在の名称となった。住所は駅前2丁目となり、「柳町」は住所から消えた。

 周辺の駅前地区は、かつてバクチが盛んだった。商店街に暴力団事務所があり、発砲事件や抗争の舞台になった過去もある。「東北のシカゴ」といわれた時代だ。晴一さんは「町内会と暴力団の間に入って折衝し、苦労した。悪名を払拭(ふっしょく)したかった」と振り返る。

 26年創業の、おもちゃ専門店は長男晴彦さん(54)が社長を継ぎ、現在の自治会長でもある。晴一さんが父親の始めた雑貨店を、おもちゃに特化した。晴彦さんは「1階を店にして、みんな商店街に住んでいた。酔っぱらいの叫び声や、ぶつかるシャッター音、キャバレーの雑音の中で受験勉強した覚えがある」と懐かしむ。

 地元の、おもちゃ専門店は市内唯一となった。市内に3支店と規模を拡大したが、現在は10坪程度の本店のみ。「以前は広く、浅くだったが、今はマニアのニーズに応え、狭く、深く対応している」と話す。

 全国展開のチェーン店が進出する中、地元の老舗が奮闘している姿が商店街にはある。

郡山・駅前アーケード商店街(下)

 ≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪

 【一番の老舗、マーボー豆腐が名物】駅前アーケード商店街の西側入り口にある中国料理の「珍満」は郡山市の中華料理店で一番の老舗。江戸時代に宿場町の旅館だったが、1868(明治元)年に「日本一総本店」を創業、まんじゅう店を営んだ。1945年の戦後、中華料理店となった。特製みそを使ったマーボー豆腐が名物。

郡山・駅前アーケード商店街(下)

〔写真〕中華料理で郡山一の老舗「珍満」。江戸時代の旅館から菓子店を経て戦後、中国料理店となった