【 いわき・平白銀町(上) 】 変化続ける東の『顔』 常に西側意識

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いわき駅東側の平白銀町は昼と夜で別の顔を見せる。「小さな旅館や商店が並んで人口密度が高かった。今は面影もない」と話す志賀さん

 今夜は白銀で一杯―。いわき市平にはJRいわき駅を中心に東西に二つの飲み屋街が向かい合う。華やかな歓楽街の田町とのんびりした印象の白銀町には、その日の気分で選べるぜいたくと、仕事を忘れさせてくれる居場所がある。白銀町は戦後、駅西側の田町を意識しながら変化を続けてきた街だ。

 ◆家や商店密集

 「料亭が並び花柳界の街だった田町に人の流れはあった。国鉄官舎のイメージが強い白銀町は地味な存在だった」。地域史を研究するいわき明星大客員教授の小宅幸一さん(65)は、百貨店大黒屋の繁栄など商業の中心となった駅西側の田町と石炭産業の生活の街として国鉄官舎が並んだ白銀町の違いを話す。

 当時、白銀町の駅に近い一帯は住宅や商店、いわきへの出張者を見込んだ旅館の密集地で、官舎を中心にした生活圏ができていたが、戦後の再開発と石炭産業の衰退で官舎の移転計画が浮上した。官舎移転によって駅東側が大きく変化する。

 1897年ごろから白銀町に店を構える米穀店の3代目店主志賀友衛さん(85)は「小さい旅館や商店が100店舗はあった。家がぎゅうぎゅう詰めに並んでいて人口密度が高かった」と振り返る。

 ◆住民の数が激減

 官舎の移転で、国鉄職員の暮らしを支える「生活の街」は「田町のような繁華街」を目指して大きくかじを切ることになる。駅から路地を一本裏に入った通り(大工町・田町線)には映画館や居酒屋、バーが並んだ。小宅さんは「白銀は鉄道の盛衰とともに市街地を育てていった場所。(白銀を含む)東側の再開発は常に西側の街並みを意識していた」と話す。

 駅に面した通りは旅館に変わり、県外のビジネスホテルが進出、1971(昭和46)年のイトーヨーカドー(平六町目)開業を機に、駅と同店を行き来する買い物客でにぎわいを見せるようになった。志賀さんは「当時はヤンヤン(駅ビル)もあって、高萩(茨城県)や原町(南相馬市)からも鉄道を利用して来ていた。今は車の通りが多い」と懐かしむ。徐々に田町と並ぶ"いわきの顔"となってきた白銀町だが、都市が抱える市街地空洞化は白銀町も例外ではなく、今は往時のような人通りはない。

 田町を意識して繁華街を目指してきた街は、飲食店が増え、住民の数が激減した。「商店が減ったさみしさはある」と志賀さん。最盛期の戦後には約400人いた住民が今、十数人。今でも夜は多くの人でにぎわうものの、昼は閑散としている。

 多くの駅前の例に漏れず、買い物客の足はどうしても郊外の大型店に向き、店主たちの高齢化も進んでいる。そんな中、東日本大震災をきっかけに、地元に目を向けた若者たちが再び白銀町を拠点に活気をもたらそうと動きだしている。

いわき・平白銀町(上)

 ≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪

 【昼から午前4時まで営業】世界館ビルの前を通る裏通りに店舗を構えて50年以上変わらぬ味を提供する中国料理「鳳翔」。草野サナエ社長(63)と近藤克城店長(45)は「駅前にいつ来ても食べる場所がなくならないように」と話すように、休憩なしの午前11時~翌日午前4時を営業時間にする。五目焼きそば(850円、税込み)麻婆豆腐(1000円、同)など人気で客層も幅広い。

いわき・平白銀町(上)

〔写真〕平白銀町で変わらぬ味を提供し続ける中国料理「鳳翔」