【 猪苗代・川桁と沼尻軽便鉄道 】 マッチ箱くれた灯 名曲のモデル

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磐梯山を望むJR川桁駅前に立ち沼尻軽便鉄道の歴史を伝える記念碑

 猪苗代町川桁地区を流れる観音寺川は、県内屈指の桜の名所だ。川桁地区はかつて硫黄鉱山まで往復した沼尻軽便(けいべん)鉄道の始発・終着駅として発展した。その最終列車の別れの汽笛から、来年で半世紀を迎える。

 軽便鉄道は安達太良山沼尻登山口付近から産出された硫黄製品搬出のために、1913(大正2)年に開業。猪苗代町の川桁と沼尻間の15.6キロを結んでいた。川桁駅は軽便鉄道で運んだ沼尻の硫黄と、磐越西線で運んだ常磐の石炭を積み替える中継地として栄えた。同時に沼尻温泉や中ノ沢温泉に向かう湯治客や、東北で最も古い沼尻スキー場の利用客を乗せる観光鉄道でもあった。

 硫黄鉱山の最盛期、始発駅だった川桁駅前は多くの旅館や商店、映画館などの灯(ともしび)が一帯を照らした。川桁駅近くで12年に創業した渡八商店の渡部節朗さん(82)は「週末は鉱山から帰る労働者が下りてくる。冬はスキー客が軽便に乗り換えるための列を作って、駅前のにぎわいはなかなかのものだった」と懐かしむ。列車はその姿から「マッチ箱」の愛称で親しまれ、作詞家丘灯至夫と作曲家古関裕而の本県ゆかりの音楽家コンビによって作られた歌謡曲「高原列車は行く」のモデルになった。

 第2次大戦が終わると、火薬の原料だった硫黄の需要が減り、石油と自動車の社会が到来。観光鉄道としても活路が見いだせなくなり、軽便鉄道は68年10月、55年の歴史に幕を下ろした。

 ◆桜に思い託す

 「軽便の火が消えてからというもの、町は寂しくなった」と渡部さん。駅前のにぎわいがすっかり過去のものとなった中で、軽便の記憶を今に伝える活動に取り組む人もいる。沼尻鉱山と軽便鉄道を語り継ぐ会事務局長の安部なかさん(66)は「町の発展は軽便なくしては語れない。鉄道は町の歴史とともにあった」と語る。次の世代に地域の記憶をつなぐため、小学校の授業で当時の話を伝えている。

 現在、軽便鉄道川桁駅のあった場所には渡部さんら有志が建てた記念碑が往事を伝える。年に1度、その碑の前でハーモニカの音色にのせた「高原列車は行く」が歌われる日がある。町商工会青年部のイベント「軽便ウオーク」だ。旧川桁駅から旧沼尻駅までを歩き、歴史を振り返る。青年部員はガイドとして参加者に軽便の歴史を語るため、イベント前に安部さんらの講義を受けている。

 近年、川桁のシンボルになっているのは観音寺川の桜並木だ。桜は軽便がまだにぎやかだった時代に植えられた。軽便が去った後の時代も渡部さんらが大切に育て、今では県内外から訪れる多くの人々を魅了するようになった。「軽便はなくなったが、若い世代につながる立派なものを残したかった」。渡部さんはそう話すと、夕焼けに染まる川辺を見つめた。

猪苗代・川桁と沼尻軽便鉄道

 ≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪

 【冬期間除き機関車と客車公開】猪苗代町の観光スポット「緑の村」には「マッチ箱」の愛称で親しまれたディーゼル機関車と客車が残る。冬期間を除いて公開されており、隣接するアクアマリンいなわしろカワセミ水族館や釣り堀を訪れる多くのファンや子どもたちが立ち寄るスポットになっている。

猪苗代・川桁と沼尻軽便鉄道

〔写真〕緑の村に展示されているディーゼル機関車と客車