【 会津美里・瀬戸町通り(下) 】 何度でも立ち上がる 壊滅的被害

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作業場で絵付けをする西田さん。にぎわいある街を取り戻したいと考える

 会津美里町本郷地域にある国指定史跡・向羽黒山城跡はかつて東北最大級の山城があった場所だ。山道を登ると、標高約400メートルの頂上にたどり着く。城を築き、会津を治めた戦国武将・葦名盛氏も眺めたであろう場所からは、瀬戸町通りや窯元などの風情ある街並みを見下ろせる。そのたたずまいからは、この地が戦火や大火に見舞われ、壊滅的な被害を受けた場所であったことはうかがい知れない。

 会津が激戦の舞台となった約150年前の戊辰戦争で、瀬戸町通りは壊滅的な被害を受けた。明治中期ごろには以前のにぎわいを取り戻したが、再び試練が訪れた。1916(大正5)年5月12日に発生した「本郷大火」。1軒の民家から出た火が強風にあおられ、近くの寺や民家に延焼した。約200戸を焼き尽くし、子どもなど9人が逃げ遅れて命を落とした。大火が残した影響は大きく、焼き物の職人らの多くがこの地を離れた。

 ◆碍子が救いに

 苦境に立たされた会津本郷焼だが、明治20年代から始まった「碍子(がいし)」の生産が地域を支えた。碍子は電柱などに取り付けられている絶縁体で、雨に強く、鳥にもつつかれないため、今でも焼き物が使われている。ピーク時には会津本郷焼の生産量の約6割を占めたという。碍子の生産工場が本郷大火の被害を免れたことも大きかった。会津本郷焼は電気抵抗に強く、欧米諸国への輸出にも活路を見いだした。元会津本郷町長の山田太蔵さん(80)は「大火の後、復興のシンボルとなったのが会津本郷焼だった。町の復活に不可欠だった」と解説する。

 碍子の生産が救世主となって再興した本郷地域。昭和30年代には、現在とほぼ同じような街並みが形成された。山田さんによると、通りには銭湯や芝居小屋があり、現在は会津地方に一つもない映画館が複数あったという。瀬戸町通りの「全盛期」だった。

 一時は100軒以上あった会津本郷焼の窯元も現在では十数軒に減った。それでも、約400年続いた会津本郷焼の伝統を守ろうと模索が続いている。100年以上の歴史を持つ酔月窯で働く西田春華さん(22)は「焼き物や通りを盛り上げるために若い人の知恵を生かしたい」と思いを語る。

 西田さんは父親の窯元を継ごうと陶芸の専門学校に進み、昨年、地元に戻った。「以前に比べて若い人が減った」と現実に目を向けながら、焼き物による町おこしを考える。「業種や年代の垣根を越えて知恵を集めることができれば良い方向に向かえると信じている」

会津美里・瀬戸町通り(下)

 ≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪

 【本郷焼でパフェやコーヒー】瀬戸町通り近くに構える「cafe yuinoba」は2008(平成20)年に開店した。会津本郷焼の窯元「樹ノ音工房」の職人らが運営する。会津本郷焼の皿やカップでオリジナルパフェ(500円)やガレット(700円)、オリジナルブレンドのコーヒー(400円)などが味わえる。営業は土、日曜日と祝日のみ。時間は午前10時~午後5時。

会津美里・瀬戸町通り(下)

〔写真〕会津本郷焼のカップに注がれた自慢のコーヒー