【 柳津・斎藤清晩年の地 】 求め続けた『古里の美』 消えない思い

 
「会津の冬」のモデルになった柳津地区の町並み

 静寂とともに雪に埋もれた町並み、小川に架かる橋と雪景、雪に覆われた国道の大橋と円蔵寺―。柳津町柳津地区は、世界的な版画家がその風景を作品に描き、晩年を過ごした地として知られている。1987(昭和62)年、80歳で柳津に移り住んだ斎藤清はこの地で90歳まで生き、代表作「会津の冬」を115作まで描き上げた。

 晩年にさしかかった大家が古里の会津に居を移したのは、七十数年ぶりのことだった。

 会津坂下町に生まれ、父の事業失敗に伴い4歳で北海道へ移住。小学校卒業後はガス工員や看板屋、朝日新聞社員など職を次々と変え、居住地も転々とした。しかし、心の奥底には古里への思いを持ち続けていた。「やっと会津人にしてもらえた気がします(中略)東京に出ても、鎌倉に移っても、どこかエトランゼ(異邦人)としての感覚が、心の底にオリのように残っていた」(福島民友新聞「私の半生」)

 ◆単純化の世界

 いとこ夫婦が住む柳津への転居は、妻の健康状態の悪化という至極現実的な問題もはらんでいた。しかし、それにも増して版画家を古里の地へ導いたのは、技術探求への強い思いだったのだろう。

 京都・龍安寺石庭で「究極の単純化」が生み出す美に衝撃を受けた斎藤は、古里の風景に共通点を見いだしている。「すべてを雪で覆い尽くした会津の冬は、たくまざる単純化の姿そのもの。かきたいものだけが残されていた」(同)

 柳津町をはじめ、出生地の会津坂下町や三島町などを訪ね、「会津の冬」を次々と描いた。白と黒のシンプルな世界に、見る人が温かみや郷愁を見いだすのは、単に技術のみならず、作家の心情が作品からあふれ出ているからかもしれない。

 柳津に転居する以前、会津坂下町を題材に最初に描いた「会津の冬」には幼少期に死別した母親が投影されている。「手をつないでゆく母子の姿は、かつて四歳のとき、この土地を後にした母と自分の姿をダブらせて作った作品であることを否定できないものがある」(同)

 ふらりとスケッチに現れる版画家の姿は、当時の人たちの目にどのように映ったのだろうか。交流のあった柳津町の長沢清志さん(57)は「画壇での先生の姿は分からないが、近所の人たちにとっては偉ぶったりすることもなく、気さくな人だった。地元の人と同じ"会津弁"で話し、地域に溶け込んでいる様子だった」と振り返る。

 世界的な版画家が没してから20年余り。時代の移ろいとともに町並みは変わった。しかし、斎藤が愛した、雪に覆われながらどこか温かみを感じる「会津の冬」は、今も変わらずにこの地にある。

柳津・斎藤清晩年の地

 ≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪

 【没した年に美術館が誕生】町中心部にあるやないづ町立斎藤清美術館は、斎藤清が没した1997(平成9)年に開館。昨年開館20周年を迎えた。貴重な作品の数々を収蔵し、常設、企画展を開催している。斎藤が生活していた「ヤマグチ美容院」は、町が改修した後、斎藤清アトリエ館として公開されている。

柳津・斎藤清晩年の地

〔写真〕町中心部にある「やないづ町立斎藤清美術館」