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  【 福島の万葉歌碑TOP 】
「可刀利をとめ」(いわき)
筑紫なるにほふ児ゆゑに みちのくの可刀利をとめの結びひし紐とく
 
 心変わり恨む「女の歌」

 東北地方における「万葉集」の分布は10カ所だが、そのうち本県は9カ所を占める。浜通りの可刀利(かとり)、比多潟、二つ沼、金沢、真野、松が浦、中通りの安積香(あさか)山、安太多良、会津地方の会津嶺(ね)で、そのすべての故地に歌碑が建てられている。12回にわたり紹介する。

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 昭和62年3月22日、いわき市平絹谷の石森山山頂において、

 筑紫なるにほふ児ゆゑに
 みちのくの可刀利をとめ の結ひし紐とく
   (巻14・3427)

の歌碑の除幕式が行われた。

 建立者は、いわき市立平第二中学校を昭和31年に卒業した「みその辰巳会」(同校の所在地が平鎌田字味噌能(みその)であり、会員が生まれた年が昭和15、16年の干支(えと)で辰・巳に当たる。竹元栄教会長)である。

 昭和60年2月に開催した同期生会で「卒業30周年を記念して万葉の歌碑を建てよう」という話が出て、歌の選定に入り、同校学区にゆかりのあるこの万葉歌を選んだという。

 建碑のいきさつについては同会が発行(昭和62年3月)した「万葉歌碑建立記念誌 可刀利少女の歌」に詳しい。

 荒明(荒教育研究所所長)は旧制相馬中学校の第33回卒業生だが、有志相つのり、恩師松田亨(本名一(はじめ)、相馬市の郷土史家、歌人)の研究業績を顕彰しようと昭和58年10月、いわき市久之浜(波立寺)に「比多潟の万葉歌碑」を建立した。松田は昭和61年3月に亡くなったが、荒は松田から「今度は可刀利少女の歌碑を建ててくれ。お前らが陰の力となって、いわきの人たちに建ててもらってくれ」と頼まれたという。

 しかし、「万葉歌碑の建立」という荒の考えはなかなか理解してもらえずにいたところ、いわき市平の医師吉江辰夫(みその辰巳会会員)が理解を示し、協力を約束したという。昭和58年の末、吉江から「みその辰巳会で歌碑を建てることになった」との電話連絡を受けた荒は、さっそく松田に報告すると、松田は建碑について「(1)可刀利の地を平片寄の地と確定された扇畑忠雄に碑文の揮毫きごうをお願いすること(2)建立地については地元の意見を聞くこと(3)いわき市民の理解を得ること」などを指示したという。

 歌碑は石森山生活環境保全林の案内図に近く、いにしえの「片寄の郷」の田園風景が一望できる場所に建つ。高さは台石を含めて約2メートル、幅約2.4メートルの好間石。揮毫は扇畑忠雄(万葉学者、東北大学名誉教授)である。「可刀利」は現在の片寄で、いわき市南部、平の平窪・草野・神谷一帯を指す。

 この歌の作者については、俘囚(ふしゅう)の部領使などで筑紫の地に行った「男の歌」(「筑紫の美しいおとめのために、陸奥の可刀利おとめの結んだ紐を解くことかな」)として処理されてきたようであるが、心変わりをした男を恨んで作った「女の歌」とする解釈があることにも留意の必要があり、再考の余地がある(「万葉の地方歌を媒介するもの」扇畑忠雄)という。

=文中敬称略 

今野 金哉

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可刀利をとめの歌碑


【2008年1月9日付】
 

 

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