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  【 福島の万葉歌碑TOP 】
「松が浦」(相馬)
松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも
 
 現代人の心に通う情緒

 この歌碑は昭和50年6月11日、相馬市岩子字長谷地、厚生年金「相馬松川浦荘」(現パークゴルフ場)の敷地に建立された。

 碑面には次の通り刻されている。

 麻都我宇良爾佐和恵宇良 太知麻比等其等於毛抱須 奈母呂和賀母抱乃須毛/ 万葉集巻十四東歌
 松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなも ろ我がもほのすも

 建立者は相馬市である。高さは台石とも約2メートル、幅約1・1メートルの御影石である。よく磨かれた美しい碑面に原文と訳文とが並刻されている。碑面の揮毫(きごう)は岩崎敏夫(文学博士)である。碑陰に建碑のいわれが刻まれている。

 この歌碑の建立についても、「比多潟」「二つ沼」の歌碑と同様、松田亨(本名一(はじめ))の功績が大である。松田は、松川浦の古名が松が浦(マツガアウラ)であることに注目して、東歌「松が浦」の故地を松川浦に擬し、種々考証を重ねて、古謡「松が浦」こそわが郷土の古代人のこえ(歌謡)であり、古代浜通り文化を背景として自然発生し伝誦(でんしょう)されてきたものであろうと推論して、早くから松川浦説を主唱(昭和41年1月、歌誌「群山」に発表)していた。

 さらに、松田は「思ほすなもろ」の「なも」をは、万葉集中「松が浦」(巻14・3552)「沼二つ」(巻14・3626、広野町二つ沼)「比多潟」(巻14・3563、いわき市久之浜)と「うべ子なは」(巻14・3476)の4首だけで、いずれも故地を古代浜通りに擬することができ、この「なも」は、奈良時代の東国方言とみなし、浜通り地域語(方言)に相違あるまいと確定した。これは、扇畑忠雄(万葉学者、東北大学名誉教授)により論証確認(昭和45年10月、「古代の日本」に発表)されて、学会の定説になっている。

 「松が浦に潮騒が高く立ちひびくように、人の噂(うわさ)はうるさいけれども、私があなたを愛(いと)しく思うと同じように、あなたも私を思っていることであろうよ」は、松田の口訳である。この1首は情緒豊かであり、よく心して読むと現代人の心にも通うところがある。

 松川浦は、南北に細長い、太平洋に沿ってできた本県唯一の潟湖であり、老松をいだいた大小の島が浮かぶ絶景の地である。昔は相馬藩の遊休所として庶民の立ち入りは許されなかったとのことであるが、現在は県立公園となっており、四季を通じて、釣り、潮干狩、海水浴などの客で相当な賑(にぎ)わいをみせている。

 松川浦周辺には、本碑のほかに、「松川浦十二景歌碑」(松川浦・水茎山・梅川・沖賀島・松沼浜・川添森・長州磯・紅葉岡・文字島・離崎・飛鳥湊・鶴巣野)、「岩崎敏夫歌碑」(川口公園)、「天野多津雄歌碑」「小林弘子歌碑」「荒明歌碑」(鵜ノ尾岬)、「松田亨歌碑」(離崎)、「今上陛下御製歌碑」(緑地広場)などの歌碑のほか、河東碧梧桐、巌谷小波、横山丁々、豊田君仙子、館岡春波、阿部みどり女、草野戎郎、只野柯舟の句碑などが、いたるところに建っており、まさに、文学碑のメッカになっている。(敬称略)

 (福島短歌研究会会長)
福島の万葉歌碑

今野 金哉

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松が浦

元相馬松川浦荘の敷地に建つ松が浦の歌碑


「松が浦」(相馬)

【2008年2月13日付】
 

 

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