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  【 福島の万葉歌碑TOP 】
「安太多良・道標兼用」(二本松)
安太多良の嶺に伏す鹿猪の在りつつも吾は到らむ寝処な去りそね
 
 誤った伝承で地元敬遠

 二本松市杉田地内(落合)の三春街道変形十字路近くに、道標を兼ねた歌碑が建てられている。碑文は上段に『万葉集』の原歌、下段に道標が刻されている。

(上段)安太多良乃禰爾
    布須思之能安里
    都都毛安禮波伊
    太良牟禰度奈左
    利曽禰

(下段)東ハ三春 四リ
  西ハ安達太良山三リ
  南ハ本宮  一リ半
  北ハ二本松 廾八丁

 上段の万葉歌の読みは、

 安太多良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の在りつつも吾(あれ)は到らむ寝処(ねど)な去りそね(巻14・三四二八)

である。

 建立者は安斎市郎兵衛(幼名久左衛門、俳号舒嘯亭秋江、著書に『双安奇人録』など)である。高さ約1メートル、最大幅約0.8メートルの滑らかな黄土色の自然石(粘板岩か)であり、苔(こけ)も生えていない。文字はみごとな楷書(かいしょ)であり、碑の側面に「天保6年乙未閏7月廾1日」と刻まれている。彫りも見事であるが、揮毫(きごう)者は不明である。

 この歌碑については、30数年前まで世に知られていなかった(地元民はもちろん知っていたと思われるが、『福島県史』、二本松藩の記録をとどめる『松藩捜古』、岩波書店『日本文学古典大系』、東京堂出版『文学遺跡辞典・古典文学碑一覧』などにも記載がなかった)が、昭和50年秋ごろの新聞を見て「これほどの貴重なものがなぜどこにも記録されなかったのか、不思議でならない」と驚いた岡部俊夫(県広報協会嘱託)によって調査され、疑問が解明された。

 岡部の調査によると、安達太良俳句会の渡辺風来子が、「草茎」(安達太良俳句会機関紙、昭和27年1月号)に書いた一文に、「…秋江名は延徳、代々市郎兵衛を名乗る。落合に生まれ酒造を業とした。俳諧は本宮の塩田冥々、二本松の根本与人、杉田の遠藤英泉らと交わる。文政11年51歳、自画自賛の画像及び四季の二軸を残す。天保6年自宅うらの三春街道追分に、万葉集巻14にある『安太多良の嶺に伏す猪鹿のありつつも…』の碑をたてた。天保7年には阿武隈川畔に自分の墓をたてる。戒名は青山常久居士」とあるという。

 本碑については、「あだたらの山に伏す鹿や猪のようにつづけて私はあなたのもとに行こう。臥所を離れるなよ」という『万葉集』の秀歌でありながら、万葉仮名が読めないのと、いつからとなく「夜ばいの歌」と誤り伝えられたため、地元の人たちに誤解され、敬遠されていた経緯がある。

 岡部は、『隈畔抄』の中に次のように述べている。

 明治26年7月、正岡子規は、芭蕉のおくのほそ道行脚のあとを慕ってみちのく入りし、この碑から2キロほどしか離れていない俳人遠藤菓翁を訪ねて一泊した。このとき「短夜の雲をさまらずあだたらね」の一句をよみ、「はて知らずの記」にそのもようを書き残している。碑はその60年前に建てられている。菓翁が知らないはずがない。なぜ教えなかったか。子規が聞けば必ず立ち寄って「はて知らずの記」にその印象をかなり力点をそそいで記したに相違ない。(敬称略)

 (福島短歌研究会会長)

今野 金哉

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安太多良・道標兼用

二本松市杉田地内に建つ、道標を兼ねた歌碑


安太多良・道標兼用

【2008年3月12日付】
 

 

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