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多彩な人物の全体像へ
松平定信は、政治・経済の分野のみならず、思想・文学・芸術などの領域においても多大な業績を残した。したがって定信の全体像をとらえることは、至難のわざである。今日、研究分野が細分化され、定信は日本史・社会経済史・思想論・交易史・蘭学・文学史・美術史などの分野から追究される。とはいうものの政治家として定信論が圧倒的で、なかでも定信の寛政の改革、異学の禁といった問題については、かなりの論文が発表されている。
わが国では、定信に悪態をつくような著作はきわめて少ない。しかし、オランダでは幾分異なる。オランダ最古の大学ライデン大学に、唯一日本学学部がある。学部内にシーボルトの胸像がたち、近くにシーボルトの持ち帰った日本品を展示する国立民族博物館もある。
さて、オランダの日本学研究者は、定信をあまり高く評価しない。知識人として認めつつも、日蘭貿易を縮小した人物だからである。オランダ側は、日蘭貿易の関係上、定信の名を早くから知ったであろうが、定信の名を書きとめたのは、天明7(1787)年9月3日が最初である。
この年の8月7日、蘭船ゼーラント号とローゼンブルク号が、積み荷を満載して長崎に着岸した。すぐに積み荷が降ろされ、かわりにわが国の銅などが積みこまれた。作業のあと、同年9月3日、長崎奉行は阿蘭陀通詞(おらんだつうじ)を介して、出島商館長ヘンドリク・ロムベルク(Hendrik Romberg)に松平越中守との約束を伝えた。商館長は『商館日誌』(Dag Register)に、
松平越中守は陸奥の白河藩主であり、それとともに老中首座(Groot Rijksraad)に叙せられている。
と書きつけたのである。
オランダでも定信研究が進められていることは喜ばしいが、如何(いかん)せん日本学専攻のごくかぎられた人のみである。日本の文化や思想が国際化するのは、まだ時間がかかろう。それでも日本学を専攻する学生は、年々増加し、やがてヨーロッパやアメリカで定信論が出版されるであろう。
私の専門は、江戸時代の蘭学と美術史である。杉田玄白、前野良沢、司馬江漢、亜欧堂田善ら、また銅版画や蘭書を調査した際、定信の名にしばしば出くわした。そこで拙著『江戸時代の蘭画と蘭書』上巻に、定信の西洋画観、入手蘭書や銅版画を、下巻に定信の海防策と銅版画の関係を詳述した。
しかし今回の執筆では、蘭学や美術史に立脚しつつも、一歩距離をおいて、定信を俯瞰(ふかん)しなければならなかった。距離をおいて見ると、定信論も著者の焦点のあて方によりかなり違いがある。定信の最大の悩みのひとつは、外交、とりわけ海防政策であった、と考えられる。
内政問題は、理想とした八代将軍吉宗の改革から解決策を見いだせても、海防問題は定信自ら対処しなければならかったであろう。まして江戸幕府の中心である江戸湾に異国船が出没するようでは、幕府の基本方針である鎖国体制を維持できなくなる。海防問題は、老中首座を免ぜられ、藩政に専念するようになっても、定信の脳裏から離れることはなかった。
内憂外患という言葉がある。内からの心配と外からの苦しみである。この言葉は大正デモクラシーを背後に、水野忠邦の天保の改革に対応させて使われた。しかし内憂外患は、すでに定信の時代に始まっていた、と考えられる。
今回、定信論を執筆するにあたり、古文書、古画類、蘭書をはじめ、先学者の著書、論文などいろいろ利用させていただいた。この定信論が、地方文化の向上となるばかりか、定信に関心のある人に利用されることがあれば、これほどうれしいことはない。
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磯崎 康彦
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石崎融思の「オランダ船 長崎来航図」(紙本着色、1822年) |
【2008年4月2日付】
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