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  【 松平定信公伝TOP 】
【 田沼意次の人物史観(上) 】
 
 時代によって評価 変遷

 江戸時代の三大改革といえば、徳川吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革である。定信は、享保の改革を理想とし、忠邦は享保・寛政の両改革の趣旨に従って政治を行った。各々(おのおの)の改革は独自な性質をもつが、同時に相互関係をもつ。そこで1つの改革を明瞭(めいりょう)にするため、他の改革との相応事項を取り上げて比較検討すると分かりやすい。

 田沼意次の活躍した18世紀後半の宝暦・明和・安永・天明期は、いわゆる田沼時代といわれる。徳川家重、家治に仕えた意次は、商人の勢力と妥協し、貨幣経済に力を注いだ重商政策者であった。一方、意次の進めた改革を否定した松平定信は、いわゆる重農政策者である。両人を比較検討しながら、それぞれの人物史観を見てみたい。

 田沼意次といえば、賄賂(わいろ)の政治家として名高く、悪政家の代表者のように扱われる。意次は好ましからざる為政者として、定信から非難され、さらにその悪評は幕府の権力により培われた面がある。明治期になると、悪評は大衆化されて広まった。

 明治20年ごろ、欧化主義の反動として国粋主義が台頭するなか、東京帝国大学編年史編纂掛は、和綴本『稿本国史眼』を明治23(1890)年に公刊した。ここに田沼意次と意知親子について、「賄賂ヲ納レ、不正ノ挙措(きょそ)多シ」とし、「家重ノ時、幕府ノ勢ハ望月満潮ノ如シ、田沼氏権ヲ専ラニシテヨリ政事始テ紊(みだ)レタリ」とある。

 『稿本国史眼』は以後改訂されるも、田沼への評価は変わらず、明治期末まで出版され続けた。

 明治24(1891)年、三上参次が『白河楽翁公と徳川時代』を著した。この書は昭和14年、日本文化名著選ともなり、復刻された。三上は「上に向うては将軍を愚にし、下には威権を振ひ、横奢(おうしゃ)致らざる処なかりき。如何(いか)なる奸曲(かんきょく)も、田沼に贈りものせば行はれざるはなく、如何なる公直も、之なければ遂げ得ざりしなり。諸役人、皆諂諛(てんゆ)媚附(びふ)を事とし、権門駕籠(かご)といふ一種の乗りもの、権勢ある家の、中の口より出入する人のために出来たり」と意次に対し痛烈な非難を浴びせた。

 三上によれば、どんな邪悪な人でも田沼に賄賂を贈れば成功し、賄賂がなければ正しいこともなし遂げられないと評したのである。

 しかし大正期になると、田沼時代を評価する史観があらわれた。大正4(1915)年の辻善之助著『田沼時代』(岩波文庫)である。辻は、田沼時代の暗黒面を、一・意次の専権、二・役人の不正、三・士風の廃頽(はいたい)、四・風俗淫靡(いんび)、五・天変地妖、六・百姓町人の騒動、七・財政窮迫と貨幣新鋳、八・開発と座と運上の8点とした。そして意次について、政治的大手腕を具(そな)えているが、「政治上に高遠の理想」がなく、一時の都合に適する政策をとり、政治的良心が欠けた人物とした。

 ただ、宝暦から天明期までの時代の潮流や時勢の移り変わりは、意次のような「一人の政治家の力によって左右せられるものでない」と、意次を擁護するような回答を出した。

磯崎 康彦

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田沼意次像(部分)絹本着色(七曜紋がみられる)

【2008年4月9日付】
 

 

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