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  【 松平定信公伝TOP 】
【 定信の人物史観(中) 】
 
 徳育の中心となる忠・孝

 明治5(1872)年に発布された学制は、フランスの制度とアメリカの教育内容をとり入れたが、規模が大きすぎ、かつ経費も莫大(ばくだい)で地方の実情に適さなかった。これに代わって明治12(1879)年、「教育令」が制定された。

 これは自由民権論と欧米の功利主義の影響を受けていたため、きわめて自由主義的であると非難された。こうした自由民権運動の民主的思想、主知的教育に対して、忠孝仁義の教育が高まり、儒教思想が復活した。そこで明治天皇の側近で儒学者であった元田永孚(もとだながざね)は、明治12年、忠孝仁義の徳育資料として「幼学綱要」を編さんし、官公立学校へ配布した。

 もっとも教育方針は、自由主義的教育と忠孝仁義の教育とが対立し、容易に決着できる状態ではなかった。元田永孚や西村茂樹は、この混乱した実情を嘆き、徳育の基礎を定めるよう努力した。

 明治23(1890)年2月、徳育の●養(かんよう)は、地方長官会議においても建議された。文部大臣榎本武揚は、児童に読み習わせる徳育の基礎となるものを考えた。新しく文部大臣に任じた芳川顯正(けんせい)は、徳育の起草を作成し、法制局長官井上毅(こわし)と元田永孚も起草に関与した。苦心惨憺(さんたん)の末、できあがったのが教育勅語である。

 明治23年10月30日に発布された教育勅語は、「教育令」に代わって明治19年制定された「学校令」と相まって、国家主義的な内容であった。文部省はすぐに、その謄本をつくり、全国の学校へ配布した。

 万世一系の国体を原則とした教育勅語は、天皇の有徳と国民の忠誠を「国体ノ精華」とし、国民の守るべき徳目を「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ」と規定していた。儒教倫理を基本とし、近代の市民道徳を加味して天皇絶対制の理念を確立したのである。

 「孝」・「忠」にてらしあわせた場合、定信は徳育の最適な人物の一人であった。定信は、忠孝について『花月草紙』で次のように述べる。

 「親に孝するは、このみを人となし給へる御恵、山よりも高く、海よりもふかし。またそのおやもわれも子等もかくながらふるは、君の御恵なり」といふは、あさかりけり。そのむくひにて孝し忠するものにあらず。人しらぬみ山の梅の花とてもかほらざるはなく、みたにの鶯(うぐいす)とてなかざるはなし。子となりてはかならずかく、臣となりてはかくあるべき道は、もとより人にそなはりたることにて、鳥獣も親をしたひ子をはぐくみ、冤牛(えんぎゅう)のことさへ語りつぐものを。

 文中の「山よりも高く、海よりもふかし」は、『童子教』に「父の恩は山よりも高し、須彌山(しゅみせん)尚下し、母の徳は海よりも深し、滄冥海(そうめいかい)かへって浅し」とある。

 また「冤牛のこと」とは、『司馬温公集』に次のようにある。むかし華州という村に農夫がいた。農夫は仕事に疲れ、犂(すき)を枕に寝込んでしまった。近くの林にいた虎は、髭(ひげ)をたて尾を揺すぶって威圧し、農夫を食べようとした。牛はすぐに農夫の上に立ち、左右の角で応戦した。虎は食べられず、涎(よだれ)をたらして立ち去った。農夫は熟睡していたため、何がおこったか知らなかった。虎は去り、農夫はなにか怪しいと思い、牛を疑い殺した。功があったにもかかわらず殺された牛は、力をつくしても認めてもらえなかったのである。

 定信は若きころ、『童子教』や『司馬温公集』などを読み参考としたとわかる。
(福島大名誉教授)

注)●はシと函の合わせ文字

磯崎 康彦

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松平定信肖像 狩野養信画

【2008年4月30日付】
 

 

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