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  【 松平定信公伝TOP 】
【 田沼意次の時代(2) 】
 
 異例の出世で老中に

 意次が評定所へ出座したとき、郡上(ぐじょう)一揆の問題が提訴されていた。郡上一揆は、吉宗の増税策が続くなか、郡上八幡藩主金森頼錦(かなもりよしかね)が自らの出世のため、有毛検見(ありげけみ)法により年貢増収を企てたところ、これに反発して起きた農民の騒動であった。
 
 この騒動は宝暦4(1754)年から4年あまり続くが、同8(1758)年4月、農民側が目安箱に訴状を出すことにより評定所の審議事項となったのである。
 
 審議の結末は、郡上八幡藩主の領地没収、農民側の獄門死罪や遠島、さらに幕閣においても老中本多正珍(まさより)の役儀取り上げ、若年寄本多忠央の領地没収などといった処罰であった。このとき審議を取り仕切った意次は、本多忠央の没収された遠州相良(さがら)の領地をもらい、1万石の領主となった。
 
 宝暦10(1760)年、家重が隠居し、家治(いえはる)が第10代将軍となった。家治に仕えた意次の昇進は、いっそう顕著なものとなった。
 
 安永元(1772)年、3万石に加増された意次は、老中となる。幕閣の最高位である老中職には、2万5000石以上の譜代大名があたるにもかかわらず、紀州家の下級武士出身の意次が老中になったことは、異例な出世であった。家格身分制を尊ぶ封建社会にあって、こうした出世をとげた意次は、のちに譜代門閥層から反発を招くこととなる。
 
 意次は従来の土地経済から商品生産経済へと変動するなか、通貨の一元化に努力し、新しい貨幣の鋳造を試みた。明和2(1765)年の「明和五匁銀」と安永元年の「明和南鐐(なんりょう)二朱銀」である。
 
 意次は貨幣経済を発展させ、商人の勢力と妥協して幕府の財政を強化することが目的であった。
 
 当時の貨幣制度は金・銀・銭の3貨で、それぞれ独立した価格体系をもった。しかも京・大坂では銀貨が、江戸では金貨が使用されたから、搬送された商品を決済する際、金貨、銀貨の交換が余儀なくされた。もっとも幕府は交換レートについて、一定の基準を提示していた。
 
 慶長14(1609)年に金1両=銀50匁(もんめ)=銭4貫文であり、元禄13(1700)年には、金1両=銀60匁=銭4貫文であった。
 
 しかし実際には、日々各地で相場が変動した。日々変動すればこそ、そこに両替商の利潤があった。なかでも銀貨は、貫(かん)・匁という重さではかる秤量(ひょうりょう)貨幣であった。
 
 「明和五匁銀」は、秤(はかり)にかける必要のない1枚5匁の銀貨で、12枚で60匁となり、これをもって金1両と交換可能となる。つまり金、銀の異なった価格体系でなく、一元化された通貨となる。しかし利潤のなくなるとみた両替商は、これに猛反対したのである。
 
 次いで鋳造されたのが、「明和南鐐二朱銀」である。南鐐とは、質のいい銀という意味である。安永元年の発行にもかかわらず、明和といわれるのは、明和9年9月の発行で、この年の11月に安永と改元されたからである。
 
 この貨幣の表に「以南鐐八片換小判一両」と刻まれているから、この銀貨8枚で小判1両と交換できる。しかも「明和五匁銀」のように銀貨の単位である匁という重量でなく、金貨の単位である両・分・朱(しゅ)の朱を使っている。
 
 だから銀貨でありながら、二朱金として使用することも可能となる。
 
 「南鐐二朱銀」や4文銭は、むやみに発行されたため、金銀銭の3貨の相場を乱し、大坂と江戸の両市場で商品流通が円滑にいかなくなった。そこで、天明8年、二朱銀の鋳造が停止され、ついで4文銭鋳造禁止令が出された。しかし商品経済が発展していくなか、それと比例して貨弊の需要も増していった。
 
 幕府は、寛政2年9月に二朱銀の流通令を出し、とりわけ大坂市場でその流通を進め、銀相場高を解決しようとした。
 
 定信が老中を罷免された7年後の寛政12(1800)年、二朱銀は再度鋳造されてくるのである。

磯崎 康彦

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徳川家重像(絹本着色)
徳川家重像(絹本着色)

【2008年5月28日付】
 

 

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