minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 松平定信公伝TOP 】
【 田沼意次の時代(3) 】
 
 自由で開放的な大気

 田沼意次は、貨幣の一元化のみならず印旛(いんば)沼の干拓や蝦夷地開拓計画にも積極的であった。

 そもそも新田開発は、農業生産の増大にとって必要であったため、幕府のみならず諸藩からも奨励された。開発が、貢租の対象となるからである。

 16世紀末の田地は、全国で150万町歩あまり、18世紀前半には、およそ2倍の300万町歩となった。開発に熱心な吉宗は、町人にも新田開発を許可したため、富裕町人のなかには、開発を請け負うことにより大地主となる者も出てきた。

 意次の印旛沼開発は、吉宗の挫折した事業を引き継ぐもので、天明2(1782)年、干拓や利根川掘割が開始された。

 事業は農業生産地を増やすほかに、印旛沼経由で北方から江戸へ入る商品海上流通路の役割も担った。しかし工事が進んだところ、天明6(1786)年の大洪水で中止に追い込まれてしまった。

 蝦夷地開拓計画は、開拓によりロシアと交易し、資金を増やそうとする意次の政策の特徴といえるだろう。

 きっかけは北方開拓の急務を説き、開国論を唱えた工藤平助の『赤蝦夷風説考』である。

 そこでまず蝦夷地の実態を把握するため、天明5(1785)年、幕府の正規の調査隊が送り込まれた。調査隊は西蝦夷、東蝦夷、奥蝦夷などを踏査し、幕府に報告書を提出した。蝦夷地が鉱物の埋蔵のみならず、有望な農耕地であり、ロシアとアイヌとの交易が行われていることを知り、意次は調査続行を決意したのである。

 しかし、天明6年9月、将軍家治(いえはる)が50歳にして病死し、家治の病状悪化に意次の関与が疑われ、意次は辞職願を提出、老中を解任された。意次の解任とともに、蝦夷地開拓計画は失速し、中止されてしまった。

 松平定信が老中になると、開拓計画は消滅し、蝦夷地に新たな問題が出てくるのである。

 田沼時代は、自由で開放的な大気が流れた。これこそ田沼時代の特質だといえる。自由で開放的な大気は商人の力を増大させ、開拓事業を促進させ、貿易の制限を緩めるであろう。中庸の徳ともいえる寛大の時代であったといってよいかもしれない。

 しかし、この大気が行き過ぎると、賄賂(わいろ)が横行し、紀綱が紊乱(びんらん)する。文学や芸術も硬直した規範や組織のもとでは、家元の正統性のみを墨守し、粉本主義に陥りやすい。

 先代の規約や組織の踏襲より、それらを打破することによって新しいものが誕生しよう。

 新たな創造は、秩序や伝統を欠くが、そこに開放的な大気が生まれる。文学や芸術の創作や活動にとって大切なことは、多少の紊乱があっても、背後に自由で開放的な大気が存在することである。

 杉田玄白が『解体新書』を翻訳出版できたのも、鈴木春信が錦絵をつくり出すのも、時代の自由な大気とかかわっていよう。

  (福島大名誉教授)

磯崎 康彦

>>>


「アイヌ風俗図」(部分)平沢屏山画

【2008年6月4日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN