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各種の学芸開花に功績
多くの蘭書や銅版画を収集した杉田玄白の友人平賀源内も、自由で開放的な大気を堪能した一人であった。源内は幕府の医師千賀道隆・道有父子と親交し、この父子の橋渡しで田沼意次にとり入った。本草学に熱心な源内は、明和7(1770)年、2度目の長崎遊学をするが、この遊学に「田沼侯御世話ニて、阿蘭陀(おらんだ)本草翻訳のため長崎へ罷越し候」(「服部玄広への書簡」)とある。
源内は意次の許可のもと、長崎でオランダ語を学び、自ら所蔵するドドネウス著『植物図譜(クライト・ブック)』(Dodonaeus:Cruydt−Boeck)を翻訳したかったと思われる。源内は「阿蘭陀翻訳御用」として長崎へ遊学したものの、蘭書本草書の翻訳は頓挫してしまった。西善三郎から譲られたエレキテルを江戸へ持ち帰ったことぐらいが、遊学の成果といえるかもしれない。
田沼時代は、冥加金(みょうがきん)を上納することを条件に特定の商人に株札を発行し、株仲間を公認した。株仲間はやがて市場を独占し、莫大(ばくだい)な利益を得る。台頭した富裕商人は自由で開放的な大気を満喫し、また幕臣でも役職にありつけない旗本のなかに、風流を楽しみ、学問や文学に勤(いそ)しむ者も出てきた。新しい文芸の開花は、かれらに依拠するところが多い。その一例が、錦絵の誕生である。
明和2(1765)年、江戸で大小絵暦が流行した。大小絵暦(えごよみ)は、その年の大の月、小の月の順序を知らせるために作られた略暦である。
この年の正月、江戸の裕福な好事家は、以前より華麗で機知に富んだ絵暦を競い合った。森島中良は、「明和二申の歳大小の会といふ事流行(はやり)て、略暦に美を盡(つく)し、画会の如く勝劣定むる事なり、此時より七八遍摺の板行を初てしはじむ」(『反古籠』)と報告している。
好事家の競作により、鈴木春信をして錦絵を生み出させた。江戸名物の東錦絵の人気と相まって、春信は一躍画壇の頂点に上り詰めたのである。美人や役者の錦絵は、極彩色でいっそう華美となり、現世の享楽的な流行を反映した。
こうなると奢侈(しゃし)を禁じ、倹約を旨とする寛政の改革や天保の改革では、当然、取り締まりの対象とされてくる。
浮世絵の人気と相まって、木版画挿絵を加えた黄表紙も安永ごろからあらわれ、滑稽(こっけい)や諷刺(ふうし)話に人気を博した。山東京伝は、佐野政言(まさこと)が天明3(1783)年、意次の嫡子意知おきともを私怨により殿中において殺害した事件を題材に『将門秀郷(しょうもんひでさと) 時代世話二挺鼓(にちょうつづみ)』を著した。また恋川春町は、蝦夷地開拓計画を題材として『悦贔屓蝦夷押(よろこんぶひいきえぞおし)領』を著し、意次を風刺した。
しかし、こうした政治風刺は、寛政の改革において処分の対象となり、黄表紙は絶版処分とされていった。洒落(しゃれ)や滑稽はなくなり、教訓めいたかた苦しい内容へと変わるのである。
天明6(1786)年8月、将軍家治が死去し、家斉が第11代将軍となり、翌7年松平定信が老中となると、意次は窮地に追い込まれた。老中を免ぜられ、蟄居(ちっきょ)を申し付けられ、諸領3万7000石を召しあげられた。意次は天明8(1788)年、70歳をもって死去した。田沼時代の一種の自由で開放的な大気は、一方で汚職をはびこらせ、風紀をゆるませ、士風を衰えさせたが、他方で各種の学芸を開花させ、各種の人間の存在を可能にさせたのである。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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意次の嫡子意知の殺害事件を題材にした錦絵(部分) |
【2008年6月18日付】
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