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  【 松平定信公伝TOP 】
【 定信の登場(下) 】
 
 絵の領域でも広い視野

 
  
 狩野派は代々幕府の御用絵師を務めたばかりか、各藩も狩野派の絵師を召しかかえ、幕末まで絵画教師としての地位にあった。

 したがって定信が狩野派を学ぶことは、ごく自然のなりゆきである。桑名市博物館所蔵の「呉竹図」は、狩野派の粉本を踏襲した一例といえよう。

 その後、定信は田安家の家臣山本又三郎こと源鸞卿(らんきょう)から●南蘋(しんなんぴん)の画技を学んだ。鸞卿は享保14(1729)年に生まれ、文化元(1804)年以降に没した画家で、清水文次郎こと諸葛監(しょかつかん)から画を学んだ。

 南蘋(なんびん)派の祖となる●南蘋は、享保16(1731)年に来舶し、2年後に帰国したが、南蘋に続いて高釣(こうきん)、鄭培(ていばい)、宋紫岩(しがん)、諸葛晋(しょかつしん)らが長崎に来た。南蘋派は、かれらから教えを受けて形成された一派である。長崎・大坂・江戸で隆盛した。

 江戸南蘋派の一人である清水文次郎は、清人諸葛晋の画風に傾倒し、名を諸葛監と中国風に改めた。もっとも長崎へ向かったかどうかは不明で、諸葛晋や明・清の作品をよく臨写している。諸葛監は花鳥画を得意としたが、かれから学んだ源鸞卿にも花鳥の作品が多い。

 南蘋派の絵画は、入念な写生体に加えて、鮮やかで濃彩な色合に特徴があったため、諸大名や富豪らに求められた。

 定信の安永9(1780)年、ならびに天明元(1781)年の絹本着色「柳に白鷺しらさぎ」、絹本着色「花鳥図」には、鸞卿から学んだ南蘋派の画風をよく伝えている。

 定信は、伝統的な絵画を愛好したことは言うまでもないが、江戸で流行し、新しい絵画潮流ともいえる南蘋派まで学んだ。もっとも、南蘋派だけに傾倒することはなかった。

 定信はのちに『退閑雑記』で南蘋の写生体をもってしても、「只かの国の事のみ」描くのでは意味がないと言う。すべて一方向にのみ盲従しない定信の性格が、絵画の領域においてもよくあらわれていよう。

 定信は詩画書を学習するばかりか、武芸に関しても、日置流の弓術、新蔭流の剣術、大島流の槍術、大坪流の馬術などを錬磨した、と『楽翁公伝』は伝えている。
(福島大名誉教授)

●は(沈)の(シ)を(ン)に置き換えた文字

磯崎 康彦

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源鸞卿「菊白頭翁図」(絹本着色、1804年、神戸市立博物館所蔵)

【2008年7月9日付】
 

 

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