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  【 松平定信公伝TOP 】
【 父からの影響(1) 】
 
 歌の心養う「源氏物語」

 定信は11、12歳頃ごろから詩を作った。それらの漢詩は韻字が不十分で、大塚孝綽たかやすにしばしば添削され、定信自ら「詩ともいひがたきほどなり」と言う。こうした理由で、漢詩より和歌を好むようになったのかもしれない。16歳のとき、歌人としての名を高める歌を詠んだ。

  心あてに見し夕顔の花ちりてたづねぞわぶるたそがれの宿

 これは、『源氏物語』の夕顔巻を典拠としている。17歳の光源氏は、六条の御息所みやすどころの邸宅へ通う途中、五条の乳母を見舞った。と、源氏は隣家に咲く白い夕顔の花に興味をそそられ、折ってくるよう命じる。隣家の女は扇に夕顔を一輪のせて贈り、やがて源氏はこの女夕顔と恋におち、女のもとに通った。が、夕顔は荒れ果てた別荘で、突如現れた源氏に恨み言を述べるものの怪けにおびえ急死してしまう。源氏は悲嘆のあまり、病床に臥ふしてしまった。源氏と夕顔の悲恋の巻である。定信は夕顔のはかない死を思い、訪ねてもさみしいだけの黄昏たそがれの五条の宿だ、と詠えいじたのであろう。

 松浦静山は随筆集『甲子かつし夜話』で、定信を和歌の道でもすぐれた人物とし、16歳の先の歌を「秀逸しゅういつ」という。さらに「定信老職となり、事に因りて京師に抵いたる。月卿げっけい雲客うんかく指さして『黄昏の侍従じじゅう来たりし』と云ひしとぞ」と続ける。

 定信は、先の歌により公卿らに「たそがれの少将」とか「夕顔の少将」と呼ばれ、歌人として名をはせたのである。

 定信は、『源氏物語』を「心ふかくつくりし」(『花月草紙』)ものとして愛読した。文化年間のこととなるが、定信は自叙伝『修行録』で次のようにいう。

  源氏ものがたり計も七度かき、廿一代集二部、八代集一部、万葉集は両度、三代集のたぐひ、さごろも(狭衣)、いせものがたり(伊勢物語)などいくつかきけん、忘れにけり。六家集も五度ばかんもかきにけん。

 定信は文化年間、古典の書写を日課としたが『源氏物語』を7回も書写した。たいへんな熱愛ぶりである。

 文化11(1814年11月、定信と親交のある堀田正敦まさあつは、「詠えい源氏物語和歌」を催した。『源氏物語』の巻名を題に詠まれた歌会である。雲隠巻を一巻とし、鈴虫巻に和歌のみならず林述斎の漢詩を加え、総勢56名の詠者であった。定信の和歌の交流人派をわからせる歌会であり、幕府歌学方の北村季文きぶんは横笛を、問題の定信は夕顔を再び詠よんだ。

 「夕顔の露よりなれてかげきゆる月をちぎりの袖の上かな」とある。定信は露・月・袖を比喩的象徴として取り上げ、源氏と夕顔の恋が悲しい結末になったことを思い忍び詠じたのであろう。定信57歳のときのこの歌は、16歳で夕顔を詠んで以来、40年あまりの歳月が経過していた。

 定信には、恋の和歌などほとんどない。にもかかわらず、何故7回も書写するほど、『源氏物語』を愛読したのであろうか。そもそも源氏の恋の遍歴や密通は、儒教思想からすれば、非倫理的事柄として擯斥ひんせきすべき事がらである。

 定信は、『源氏物語』や『狭衣物語』などを書写することにより、「歌のよきあしきも聊いささか心にわかりぬ」と言う。したがって「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」と認識し、歌人にとって必読書として接したのであろうか。

 また定信は、源氏が帝となりうる立場にいながら臣下になったことに、自ら同じような境遇を感じたのであろうか。『花月草紙』の「源氏の評」を読むと、源氏をとおして人間の善悪の行為とその結果としての返報をみていたようにも思える。

 ともあれ『源氏物語』は、定信にとって「心ふかくつくりし」物語であり、「奥意の深きをおぼゆ」る物語であった。

(福島大名誉教授)

磯崎 康彦

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「達磨法師」松平定信画(天明4年、白河市歴史民俗資料館蔵
「達磨法師」松平定信画(天明4年、白河市歴史民俗資料館蔵

【2008年7月16日付】
 

 

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