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兼好や西行への批判も
『花月日記』(岡島偉久子・山根陸宏翻刻本)によると、定信は文化13(1816)年閏8月4日、「きのふよりつれづれ草を書」きはじめた。この年の8月3日、大風雨にみまわれ、東本願寺の鐘楼(しょうろう)が吹き倒され、大船が永代橋に衝突した。
嵐のため庭園散歩をできなくなった定信は、浴恩園の千秋館にこもり、「仏めきたるに、名聞にのみかゝるさま、心にくけれど、かくべきものなければ、おりおりのなぐさめにと思ひ」たって、『徒然草』を書写した。
『徒然草』の書写は、『源氏物語』の場合とかなり異なる。書写するものがないから、たまたま『徒然草』を書写したにすぎない。しかも『徒然草』を「仏めきたるに、名聞にのみかゝる」という。
『徒然草』が、中世特有の仏教的世界観を反映した随筆であることは、今さら言うまでもない。たとえば、『徒然草』一一二段は、遠国へ旅立つ人・年老いた人・出家する人などは他事を気にかけないし、他人もそれを恨まない。世間の儀礼は大切だが、これに従うと雑事に妨げられ、人生が無駄になる。今こそ「諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり」という内容である。諸縁も放下も仏教語である。兼好は、雑事をすべて捨て、関係を絶ち、仏道に精進すべきとき、というのである。
さて、定信はこの兼好の生き方に批判的であった。『花月草紙』の次のような「仏の教」から、定信の仏教観がわかる。
わが欲を、欲もてふせがんとするはいとかたし。「けふ盃にひとつ酒のまんよりは、あすはこゝろにまかせてのますべし」といふがごとし。「この世はかりのよなり、かの国には、よきねの鳥、よき色かの花よりして」など教ゆるは、その国のおろかなる民ぐさのはかなきほどもしられぬ。
定信は、現世の欲を極楽観念をもって捨てさることなど愚かであるという。きわめて仏教思想に否定的なのである。
定信は、兼好のみならず歌人西行に対しても批判的であった。
西行はかって武術にすぐれ、兵法に通じ、鳥羽上皇に仕えた北面の武士であった。和歌に秀でたため上皇に愛された。しかし世の無常を感じ、妻子をすて、嵯峨で出家、雲水を友として諸国を周遊しつつ、和歌を詠んだ。俗名を佐藤義清(のりきよ)、法名を円位(えんい)という。
定信は、西行を「いと情欲のふかき人なりけめ」と言い、西行の生き方を批判する。
妻子をも家をもうち捨て出たるぞ、いとうるさくわずらひとなり侍りしとこそ思ひやらるゝ。妻子のいとほしくあはれに家をしたひぬるは凡の情なり。それによてうるさくわづらひとなりて身の置どころなきほどに思うぞ、情欲ふかきによれるにや。もとよりかの浮屠の道にまよひて、世を遁れ侍るを高致とせしより出きにけん。もとゞりきりて、そこはかとなくありきわたりたるとて、何のたとき事もあらじ。されど歌はすぐれたる人なりけめ。
定信は父宗武と同様に、西行の歌はすぐれていると認めた。しかし、妻子をすてて世をさけ、仏道に入ったことを西行の情欲とし、西行を情欲のふかい人物と非難した。
定信は、為政者として現世の問題と常に向き合ったから、仏教の隠栖思想を最高の極致と考えなかった。それどころか妻子をすて、侍の身分をすてた西行を自らの本分を果たさない人物として嫌った。兼好や西行は、世がいやになり仏道に救いを求めた厭世(えんせい)家であり、これとは反対に、定信は世の問題を対処する経世家であった。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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松平定信が載った「福島懸青年譲本」 |
【2008年7月30日付】
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