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  【 松平定信公伝TOP 】
【 定邦の養子に(下) 】
 
 一途に盲従せぬ聡明さ

 定信は読書に明け暮れるばかりか、著述にも熱心であった。安永年間後半に『漢書論説』・『求言録』・『古史逸』を、天明年間初めに『国本論』・『正名考』・『修身録』・『政事録』などを著した。

 『漢書論説』は、前漢の高祖より元始に至るまでの二百数十年間の史実を紀伝(きでん)体として記録した『漢書』を論評した書である。

 たとえば、文帝は万民饑寒(きかん)の姿を見て天下を導き、農業をすすめ、天下質素して本末転倒することがなかった、と評す。

 また民の安寧は国の根本であるが、民を虐(しいた)げてやすらかん事を思うのは、根を切り葉の茂ることを願うようなものだと言う。

 定信は、『漢書』に登場する天子や臣下を取り上げてその政策を批評し、君臣の政治論を展開し、またその際、学ぶべき学問のあり方を示した。

 『求言録』は、四書五経や歴史書から諌言(かんげん)をぬき書きし、君主の臣下への儒教的な諌言方法を述べた書である。『古史逸』は、一人物を仮説し、そこに定信自身を投影し、民心のゆるむ泰平の世にあっては、君子の政務も怠るようになるが、このことに注意するよう自ら訓戒した書である。

 天明元(1781)年、定信は『国本論』及び『同附録』を著した。これは定信の直筆でない。定信は肩や背が痛み、医師より読書も禁ぜられ、なにもすることがないので「側の人に口占(こうせんし)て書しめ」たという。『国本論』・『同附録』は口授筆記である。

 定信は、君民は一体であり、民を厚くすれば君に危亡の禍いなしと言う。『書経』の「五子之歌」にある「民惟邦本(たみこれくにのもとなり)本固邦寧(もとかたければくにやすし)」(民は国の本である。本が固ければ国は安泰である)からの引用であろう。

 定信によれば、民は天の民で、天自ら民を治めることはできないから、天子をしてこれを治めさせ、天子自ら治めることができないから諸侯をもってこれを治めさせるので、諸侯による治めは則天子の命であり、天の命じたものである。治めるものは「徳器」を備えた人物でなければならないと言う。

 国、財、民は私の国、財、民でなく皆天のものであるから、国、財、民をおろそかにすべきではない、と説く。『国本論』、『同附録』は天の民をどのように治めるか、君子の心得や方法を説いた書である。

 天明2(1782)年、定信は『修身録』と『政事録』を著した。『修身録』は子育ての事、武芸の事、学問の事、政事の事、民百姓の事などいろいろな項目について述べている。定信自身、「身のおこなひ、父子夫婦の五倫の道、又は学問の事などしるし、下情(かじょう)その外政事の本」と紹介している。

 君臣、父子、夫婦に儒教の五常五倫の道を説くが、とりわけ学問の進向について四書五経から『史記』、『漢書』への読むべき書の道を示す。そして博学博識となることより実践的であるべきと説く。学問を通して民の事情を知り、民を治めるには理でなく、書をはなれ、人情時勢を基本とすべきとする。

 諸学に流派があるが、どの流派にも良き点、悪しき点があるという発言は、一途に盲従せず、偏狭にとらわれない定信らしい態度といえよう。

 『政事録』は現存しないようで、私もまだ未見である。ただ、定信は、『宇下人言』でこの書について「第一凶年のたくはへかくのごとくしてとかき、経済のみち残りなくかきしる」す、と述べている。

 定信は読書と著述を通し、幕藩制における自らの政治理論や倫理観を確立し、実践的な学として儒教の必要性を認識した。儒教の教説は、定信にとって、単なる知識界の博識的な内容とか、流行の言説でなく、儒学を教化の学としてたて直し、儒学の実践的教化の役割を再認識したのである。そこには修身を軽んじ、やがて倫理的な価値観を崩壊へと導くような徂徠学への反発でもあった、と思われる。

 定信は「治国の道」への信念をいっそう強くし、田沼政治を批判し、改革へと進むのである。

(福島大名誉教授)

磯崎 康彦

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松平定信作「墨竹図」

【2008年8月20日付】
 

 

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