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飢饉に対し迅速な対応
さらに白河藩は、越後分領から廻(かい)米1万俵も確保した。越後から白河への米の廻送には、会津領を通らねばならない。そこで白河藩の御使番佐治三郎左衛門が会津に出向き、凶作のためやむをえず、越後から廻送する旨を説明した。
『家世実紀』に、「遠領越後表之米在所へ為差登候筈に申付候、然共(しかれども)御領分之運送差支候には、委細申述候通致迷惑候ニ付、以使者運送之儀御頼得御意候、嘸(さぞ)御役人中も此節之義難被及取計義も可有之候へ共、不軽義候間厚ク御頼得御意候」とある。
越後白河分領から白河へ米を廻送するにあたり、会津領内の通過の要請である。これに対し、会津藩は通過を許可し、1万俵が越後から白河へ廻送されたのである。
飢饉(ききん)に際し、白河藩のみならず領内の富裕町人や百姓も、藩政に協力して米穀の確保に努めた。須賀川の郷士内藤氏や市原氏、鏡沼村の大庄屋常松氏らである。
内藤氏は、飢饉の際に孝昌(たかまさ)が当主として活動し、父喬昌(たかまさ)はすでに隠居していた。にもかかわらず、喬昌は定信より代官加役に再任され、藩の依頼により二本松や米沢を回り、米2000俵、金2000両を調達した。(『須賀川市史 近世三』)
白河藩は会津藩より江戸廻米6000俵を購入し、越後分領より1万俵を廻送し、また大坂で尾張美濃の蔵米2000俵を買い取り、飢饉に備えた。やがて貧窮状態が深刻化するにつれ、諸藩は自らの藩を守るため、他領への売り出しを禁ずる米の口留めを実施した。
しかし定信は、天明3年8月ごろまでに購入手続きを迅速に済ませ、このことが功を奏したのである。定信は自ら質素を旨とし、御触書を出して領民に質素倹約を徹底させる一方、田畑の開墾や道路改修事業を進め、飢饉を乗り切った。白河藩は窮(きゅう)民に米を支給する救援策を出しており、他藩に比べれば惨害は少なかった。それでも領内に凶作による死者はみられたのであろう。
定信は、「予が領国は死せるものなしといへり。されど餓死せざれども、食物あしくて死せるものはありけんかと思へば、いまも物くるし」(『宇下人言』)と述懐している。
定信は江戸や各地より食糧を購入して白河領内に配った翌年、天明4(1784)年6月末、藩主として白河へ赴いた。白河領への初入部である。
飢饉の折、鞍覆(くらおお)いを革とし、毛槍(やり)たて・道具・台傘などをすべて省き、武備のための具足櫃(びつ)2つという、至って質素な行装であった。入部した定信は、白河城内に霊社を建て、白河松平の祖である松定定綱を祀(まつ)った。
定信は霊社建立ばかりか境内に講武場を設け、文武を奨励し、奢侈を戒しめ、殖産を説いたのである。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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諸葛監「翠柳芙蓉白鷺小禽図」(神戸市立博物館蔵) |
【2008年9月3日付】
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