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溜間詰で幕府の中核へ
天明5(1785)年、定信は嫡母(ちゃくぼ)宝蓮院に助力を求めて田沼意次へ近づき、溜間詰(たまりのまづめ)に任ぜられた。江戸城内の部屋の名称に由来する溜間詰は、老中の相談役であり、将軍に意見を述べることができた。
もっとも定信は、「公義の御政務(意次の政治)おぼつかなき事のみ多かり、よて常々心をいたむ」と嘆(なげ)いている。溜間詰の連中のみならず老中らを無能な者と思ったのであろうか。
意次に批判的な定信が、何故(なぜ)意次に近づき溜間詰となったか、問題視されよう。
定信はその動機や理由について述べておらず、推測するしかない。
「治国の道」の信念を少年の頃(ころ)より懐(いだ)いた定信は、幕政の中核に係(かか)わり、自らの政策を実現させる近道と判断したのかもしれない。
天明6(1786)年8月、田沼意次は老中を罷免(ひめん)され、翌月将軍家治(いえはる)が死亡した。家治没後、家斉(いえなり)が11代将軍に就任するが、定信は家斉に自らの考えを上申した。
定信の意見書(封事)は徳富蘇峰により、「田沼失脚罷職と(中略)定信の老中上座拝命の中間の事と見ねばならぬ」とされ、『松平定信時代』に述べられている。
意見書の内容は意次の政治を批判するばかりか、定信の老中就任後の経綸(けいりん)と深く係わっている。しかもこの意見書を定信の老中就任への自薦状とみる説もある。
定信は意次を「盗賊同前(然)の主殿頭(とのものかみ)」と疾呼(しっこし)、意次を刺殺しようと二度まで思ったが、これは天への不忠と考え思いとどまった。定信は権門や大奥のみならず、幕府出入りの医者や学者らにも金銀賄賂(わいろ)を受け取ることは禁止すべきとした。しかし型どおりの禁止だと人心が荒廃するから、賞罰を与えて人心の道徳的意欲を高めることがよいと言う。
定信は不祥事が続き、綱紀がゆるんだ田沼政治を批判し、綱紀粛正(こうきしゅくせい)と儒教的倫理観の徹底を説いた。
意次の老中罷免が天明6年8月、定信の老中首座拝命が翌年6月で、この間のほぼ10カ月は、田沼派と定信擁立派との政治的葛藤(かっとう)の時期であった。
定信の老中就任を推し進めたのは、御三卿のひとり一橋治済(はるさだ)である。治済は将軍家斉の父であるから、家斉へ上申した定信の意見書も読んでいた、と考えられる。
治済と御三家とのやり取りは、『水戸家文書』に詳しく、すでに多くの先学者により引用されている。天明6年10月、治済は御三家のひとり水戸の徳川治保(はるもり)に次のような書簡を送った。
近年、世上の風儀は乱れ、実義を失い、利欲のみが横行している。役人とて廉直れんちょくの風がなく、権威にへつらい、賄賂を贈る有様(ありさま)でなんとも嘆かわしい。先頃、一両輩(意次)を退役させたものの、家治がすぐ逝去してしまい、事態は急をつげる。万端を立直し、悪風を改め、若年の上様(家斉)を補佐するため、「実義器量(じつぎきりょう)之者先一人」を老中に加え、享保の仁政に立ち返り、万民を安堵(あんど)させたいという趣旨の書簡であった。(菊池謙二郎「松平定信入閣事情」、『史学雑誌第26編』)
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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定信筆「みそぎをよめる」 |
【2008年9月10日付】
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