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  【 松平定信公伝TOP 】
【 老中首座(2) 】
 
 御三家の推薦も拒否に

 書簡を読んだ水戸の徳川治保(はるもり)は、尾張・紀伊の徳川家と相談し、御三家に異議なしと返答した。そこで治済はるさだは、「実義器量之者」として筆頭に松平定信をあげ、ついで酒井忠貫(ただつら)、戸田氏教(うじのり)をあげ、閏10月6日尾・水両家へ書簡を認(した)ためた。

 そのさい定信について、「殊(こと)ニ初筆之者ハ(定信)、前々より面談も仕、別而委敷(べっしてくわしく)心立も存罷在(ぞんじまかりあり)候間、相答可申哉と奉存候」と書き加えた。

 御三家は頻繁に会って話し合い、尾・水両家は、閏10月16日、推薦された3人中、「初筆之人物ハ(定信)、拙者共ニ茂(も)兼々(かねがね)宜敷人物之由及承(うけたまわりおよび)申候」と、定信の老中推薦に賛同する旨を伝えた。

 こうして一橋治済の考えは御三家の賛同を得、12月大老井伊直幸(なおゆき)、老中水野忠友らに定信の老中就任推薦状を提出した。しかし、将軍の継嗣問題に対処する家柄である御三家の推薦であったにもかかわらず、田沼派の老中らにより拒否されてしまったのである。

 拒否した者について、大奥の老女大崎は次のように伝えている。

 天明7(1787)年2月1日、市ケ谷の尾張邸を訪れた大崎は、老中水野忠友が定信推挙に反対したばかりか、将軍家斉から意見を求められた大奥の老女高岳(たかだけ)、滝川らも反対したと言う。

 その理由は、9代将軍家重のときに「御身近く御縁有之者御役儀(おやくぎ)ハ被仰付間敷(おおせつけられまじき)」、つまり「将軍家の縁者は幕政に参与せしむべからず」との上意を盾に取ってのことであった。定信のみならず将軍家治の養女となった定信の妹種姫も、将軍家の縁者と解したのである。

 これに対し、御三家は「御縁(ごえん)有之候者と之儀ハ御外戚(ごがいせきの)儀」、つまり母方親類筋と制限し、定信は外戚にあたらない、と老女大崎に返答した。

 しかし2月28日、老中は先の家重のときの上意に固守し、定信不採用の旨を正式に知らせたのである。

 このとき定信の老中就任に反対したのは、天明7年の「大崎申聞候次第」(『水戸家文書』)から、御側御用取次(おそばごようとりつぎ)の本郷泰行、横田準松らであったと分かる。かれらの動きについては、菊池謙二郎氏(前掲書)、竹内誠氏(「寛政改革」、『岩波講座日本歴史12』らによって指摘され、藤田覚氏(『松平定信』中公新書)も両者の考えを踏襲されている。

 とりわけ、本郷泰行と横田準松の罷免(ひめん)された天明7年5月24日と同月29日は、天明の打ちこわしの日付と重なるところから、この騒擾(そうじょう)の政治的責任を負い、両側衆は解任されたとする。同時に少々誇張した表現だが、定信は天明の打ちこわしにより誕生した老中とする説が多い。

(福島大名誉教授)

磯崎 康彦

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源響卿の「芭蕉に白頭翁(はくとうおう)図」(神戸市立博物館蔵)

【2008年9月17日付】
 

 

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